紀州鉄道のあゆみ



 日本一のミニ私鉄、紀州鉄道は紀勢本線(JRきのくに線)御坊駅を起点として終点の西御坊まで営業距離はわずか2.7km。この距離は他の鉄道では1駅間並の距離でしかありません。
1931年(昭和6)の開業以来65年間、市街地から離れたJR御坊駅と市街地を結んでいます。
 開業当初の御坊市は地元資本の日高紡績、日の出紡績等の繊維関連企業が好況であり、和歌山県下随一の賑わいを見せていました。地元の日高銀行は県下一の預金量を誇り繁栄を極めていたのもこの頃です。そのため開業当初は順調な経営でした。
しかし、恐慌・戦災や水害により御坊の町が栄華を失うと共に御坊臨港鉄道も次第に乗客数、貨物取扱い量が減少し、そして車社会の到来で苦しい経営が続くようになりました。
そして、御坊臨港鉄道も他の多くの地方中小私鉄と同じように経営不振による廃止となりかけていました。しかし、1972年(昭和47)に不動産会社に買収されたことを転機として、名前こそ変えたものの現在まで生き残っています。
生き残れた仕組みは、不動産会社が社名を紀州「鉄道」とすることで、鉄道会社の不動産部門となり有形・無形の信用獲得でき、本来の不動産事業ばかりでなく、観光・リゾート等の新たな部門にも有利な形で進出できました。(箱根の別荘地開発が有名です。)

 現在の鉄道部門の経費は収入の約2倍以上を要し、1989年の輸送密度は僅かに538人/kmに過ぎません。通常では鉄道の存続など極めて困難ですが、鉄道は会社の看板であるがゆえに安心して走り続けられています。
紀州鉄道が生き残った原因として、鉄道会社の多くが経営の多角化をはかり、経営の規模拡大を行ったのに対し、全くそういうことを行っておらず会社としての資産価値がなかったことが、買収を容易にし、かえって良い結果となったようです。また、小規模であるがゆえ赤字の絶対額が多くはないことも好都合であったのであろうと思われます。
 むろん、合理化等の企業努力は行っています。1989年には西御坊−日高川間の0.7kmを廃止しています。また車両のワンマン化、企画記念切符の発売等の努力は同業他社に比べても非常に早くから行っています。更に、後ろ向きの合理化ばかりでなく、毎時2本の運転本数確保による利用者のつなぎ止めも経営努力として評価されたいところです。
 最近においてはJR御坊駅前も賑やかになりつつあるとはいえ、まだまだ「閑静」であります。このような町の構造が続くかぎり紀州鉄道は地元の足として根づき、走り続けることでしょう。




戻  る