祭 の 歴 史 と 由 来 に つ い て |
祭の起源 |
この祭がいつ頃から始まったか詳でないが、「薗村八幡神社縁起俗解」並びに
「言伝雑書」に「祭礼に馬駈あり・・・・湯川直春落城の後は馬駈止む由」とあり、 室町時代にはすでに流鏑馬が行なわれていたことが記録されている。 その後、寛永19年(1642)古寺内の六左衛門という者に神が乗り移り「すぐ祭 りをせよ」との御告げがあり、その年から祭りを始めたという話が起源とされていま す。その頃より、ほぼ現行の形の祭りが始まったと思われます。 また、石清水八幡宮(京都府八幡市)系統の祭である放生会の流れをくみ、参加各組の 幟印にも「放生会」と書かれています。 |
祭の特色 |
祭とは神霊を迎えて饗応し、あるいは神と共に籠るなどして神を慰めなごませよう とする行事で、日本人は祭を営むことによって災厄から免がれ、生産を高め、平安と 繁栄を願い、その障害となる悪霊の追放を祈願してきた。 祭が行われるのは正月の元旦祭から新年の予祝行事、春夏秋冬の各祭、それに毎月 の月並祭など一年を通じて二十回以上もある。その中で特に盛大に執行されるのが例 大祭で、当地方では秋祭がそれに当る。やはり秋の収穫がすんだ頃が、人々の心を豊 かにするからであろう。 祭の特色は各地区・各神社によってさまざまであるが、当地方では主として八幡神 社系の放生会の流れを汲む奴祭(やっこまつり)と、祇園会系統の山車(だし)を曳 く祭が多い。 奴祭とは奴装束をつけて行列し、奴太鼓・屋台・四ッ太鼓などの祭具・道具を担い で回り、奴桶・雀踊りを奉納して江戸初中期の奴振りを表現するなど、豪放華麗な祭 で、以前は各地とも喧嘩祭の異名をとっていた。 |
御坊の祭 |
御坊市内の祭としては、旧御彷町に鎮座する小竹八幡神社氏下の「御坊祭」、南塩 屋須佐神社の「森祭」、塩屋王子神社の「塩屋祭」、熊野神社の「熊野祭」、吉田八 幡神社の「吉田祭」、湯川神社の「子安祭」、宝神社の「秋祭」、隣接川辺町土生八 幡神社の「土生祭」に参加する藤田町藤井地区、同じく印南町山口八幡神社の「印南 祭」に参加する名田町野島・上野・楠井の三地区がある。もっとも子安・宝・吉田の 三神社は現在神賑行事も余興も行なわれていないが、他の神社の行事は年々盛大であ る。 一概に秋祭といってもその時期は多少異なり、八幡系統は旧暦のころ8月14・1 5日であったが、新暦になってからは印町祭は10月1・2日、御坊祭は10月4・ 5日、土生祭は10月第1土・日曜日、森祭は10月9・10日、そのはか10月中 の土・日曜日に行うなど、近年は日程に変更もみられる。 |
祭のすすめ方 |
祭のはじまりは9月に入っての初寄合であるが、名田三地区は古例に従って9月1 日に「八朔の宿入り(月遅れ)」を行ない、その他は吉日を選ぶ。初寄合のあと、役 者・若中は獅子舞・笛・太鼓等の稽古いわゆるナラシに入り、他は費用の割当、寄付 廻り等に忙しく、四ッ太鼓乗子の稽古も熱が入ってくる。そして4、5日前になると 幟立てが行なわれ、各地区・組の若中宿、隣接地区との境界などに5反・3反・2反 の各幟が立てられる。祭はこのあと傘揃え・宵宮・本祭・傘破ちと行なわれるが、宵 宮または本祭の朝、日高浜の清浄な潮を汲んできて神社あるいは当屋(宿)・屋台な どに潮かけをするところもある。 祭の方法は宵宮の前日に諸道具を組み立て、その夜に総ならしまたは足固めと称し て、地域内を屋台・四ッ太鼓を担いで回り、終って踊り・獅子舞の稽古納めをする。 宵安は午前中に総代・宮世話人が神社へ集ってお道具を整える。次いで昼頃「奴衆 出ゃっしゃれ」と歩行触(あるきぶれ=連絡人)が地域内を回ってくると、役員・若 中が宿へ集まり、出洒で景気をつけ、四ッ太鼓を担ぎ、豪快な伊勢音頭を囃しながら 、また屋台は道中囃子(渡り笛ともいう)を奏でながら地域を回り、ところによって は宮入りを行なう。宵宮の夜、宮入りを行なう習慣は古くからあり、現在もこの風習 を守っている土地は古風と言えよう。 これは日本人は古くから一日は前日の夕刻から始まるという観念を抱いていることに よる。 本祭の朝、総代・宮世話人たちは羽織袴に威儀を正して神社へ参内、神殿において 神事を執行する。儀式はたいてい修祓・献饌・祝詞奏上・玉串奉奠・神楽奉納・撒饌 であるが、湯立神楽を奉納する神社もある。そのあと神霊の移座があり、いよいよ神 輿の出御となって渡御(お渡り)がはじまる。お旅所はその神社の氏下に在る浜辺、 元宮、氏神・産土神が最初に頓宮された場所などで、海岸から離れた所では川原・丘 の上などもある。道中は神具を捧持して神輿が先に巡幸する場合もあるが、たいてい は各地区・組の幟・額・大道具が先導し、そのあと神輿・神具が続き、総代・役員た ちが供奉する。 お旅所での行事は本社と同じように神事があり、終って各地区の踊り・獅子舞の奉 納がある。この場合、一村(地区)1、2組であれば早く済むが、7・8組ともなれ ば延々と続き、御坊祭の如きはしばしば真夜中までかかる。尚、近年では浜辺での行 事を廃して還御(お戻り)の途中、馬場筋や神社の一隅において行なわれることが多 い。祭はそのあと神霊の還座をもって終る。 傘破ちは本祭の翌日で、各若中組では祭礼に世話になった役員の宅や宿へお礼の獅 子舞に行く。区内の全部を回るのは単なる寄付集めに過ぎない。またその日に道具を 片付け、支払いを済ませ、最後に慰労の宴を張って祭を終る. |