御 坊 祭 の 見 ど こ ろ   






獅子舞(ししまい)



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御坊祭の獅子舞いは前後二人で舞い、獅子頭が赤い雌耕子(上組・中組・浜之瀬組・下組・名屋組・東薗組)と頭の黒い雄獅子(紀小竹組・御坊組)があります。獅子を宮前の約30畳位の広さで舞い、囃しは笛と太鼓にデッツクと呼ばれる〆太鼓で行われます。笛が主役ですが、このデッツクのテンポが一番重要で、このテンポが狂うとすべてがおかしくなってしまうのです。
 舞いのシナリオは『山から野に出た獅子が花や蝶と戯れ、やがて居眠りをした後、再び歩き出すが鉄砲に射たれ、手負いとなり暴れる。しかし、最後は神に諌められる』といった内容です。
 各組共に基本的には同じ形式なのですがが、笛・太鼓・舞い方が少しづつ違い、各組の特色があります。獅子の舞い手は若者ですが、3年舞ってようやく形が出来き、5年舞って一人前と言われる程、熟練を要するものです。獅子は重く、また獅子の中は動きの中で暑くなるため相当な体力を要します。





屋台(やたい)


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「獅子箱」とも言い、大型の長持に金箔張りの宮居と太鼓を乗せ、中に獅子頭を入れた一種の太鼓台で、6人〜10人位で担ぎます。渡り笛と太鼓・蹄太鼓で奏しながら巡行します。この屋台の起源は定かでないですが、かなり古くからあり、約250年程度の歴史があります。
 祭の道具としては重要なもので決して、手荒な扱いはせず、他組の者には触れさせません。組の象徽とも言えるものなのです。





御輿(みこし)



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神輿はその名のとおり、神が巡行する時の乗りものです。どこの祭にもあるように祭で最も大切なものです。
 ふだんは神社の社殿の奥深くに鎮座している神を氏子たちが年に一度、五穀豊穣の感謝をこめて神輿に乗せ、海にお連するのが本当の祭の由来です。そこで、汐かけをし、禊ぎを受けた後に獅子舞等を神に奉納します。
 御坊祭も昭和30年代頃までは、氏子全員が神輿とともに海岸のまで一緒に行き、そこで祭をしていました。ですから祭の日は御坊の町には誰れも居ないようになってました。
 10月5日の本祭当日の朝、宮を出て美浜町浜ノ瀬の海岸で汐かけを行い、休憩したのちに御坊町内を一巡してから宮に戻ります。宮が御旅所となって祭行事が進行してゆきます。
 神輿を担ぐ人は「みこしかき」と呼ばれ、各組から1年間家中に穢れのない若者2〜3人が選ばれ参加します。これに選ばれるのも名誉の一つです。





幟(しるし)


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幟(のぼり)のことを「しるし」と呼び、組の地区名やスローガンを書き記したものです。大・中・小の3種類に分けられ、布の張り合わせた枚数(それぞれ5・3・2枚)によって分類されます。上組では大幟に「御輿副」、中幟に「御祭礼」「放生会」「新薗」小幟に「御祭礼」と書いています。
 見どころは、この大きな幟を若衆の一人が腕だけを使って差し上げるようにして立てるところです。まわりで見ている人も思わず力が入ります。




けほん踊り


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「戯瓢踊り」とも書き、念仏踊りの一種です。御坊祭が始まった当初より御坊組の宿老によって奉納きれており、昭和23年県無形文化財第1号に指定されています。宵宮は日高別院、本祭りは小竹八幡神社で行われ、天明4年(1784)に紀州藩主、徳川治貞侯より賜った四恩状(しおんじょう)を読み上げてから、踊りが始まります。各々が瓢箪・太鼓・鉦・鼓を持ち、列になったり、輪になったりして踊ります。
 昭和41年からは、保存会を結成し御坊組に限らず、広く氏子の中から参加していますが、やはり相当の地位と信頼を得ている人に限られ、一種のステータスとなっています。衣装等が非常にきらびやかです。




雀踊り

 
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 下組の奉納芸で市指淀民俗文化財に指定され、本祭りに小竹八幡神社で奉納されまする。
この踊りは奴踊りの一種で奴装束にい笠をかぶり、三味線と歌に合せ雀の動作を真似た優雅で温和な踊りです。歴史的には、宝永年間(150年程前)に京より踊りの先生を招き神に五穀豊穣を感謝するために稲が実るまでの農作業を踊りにしたものと伝えられています。
この踊りは、下組より日高郡全体に広められたのですが、現在に残っているのは、他には和佐祭の江川組のみです。