民話 「餅つかぬ里」

このお話は、小川地区に伝わるものです
  元弘二年のお正月のことです。去年の暮れから降り続いた雪で、野も山もすっかり真っ白になっていた。 右左右衛門は、大みそかについた一斗五升の餅で三日間雑煮を祝った。四、五日もたつうちに餅は残り少のうなった。そのうちに七日になった。
  正午過ぎのことだ。ザクリザクリ雪を分けて二人の山伏がやってきた。若い方が、
「物申す。右左右衛門宅でござるか」   「へい」
「別に用はないが、お前は弓矢が上手だと聞いたので……」といいながら、床の間に飾ってある弓矢をながめた。
「万一のことがあれば、いくさに出るのだろうのう」
  右左右衛門は、年の暮れに聞いたシシ(しか)買いのうわさを思い出していた。
(これはきっと、わしら猟師をかり集めて、大塔山にしのんでおられる護良親王を討てという鎌倉方のまわし者に違いない)
 「めっそうな、いくさなどできやしません。イノシシやサルは撃ちますが、いくさの話など聞くだけで身がちぢみます。そんな話は止めてください」
「そうか!では恐れ入るが茶を一ぱい…」
「あいにくおいて、こざらん」
「では何か食べ物を少しめぐんでくれないか、大変腹がへっているので……」
「何もござらぬ」
「正月の餅でもいい」
「みな食べてしもうて一つもござらぬ」
「仕方がない。では、お邪魔申した」
そういって立ち去った。それから半日ほどたって、弓矢を持った武士の一団がやってきた。
「さっき山伏姿の者が通らなかったか」
「通りました。もう四、五里も先に行っているでしょう。あっ!あなたは!」
武士は暮れに来たシシ買いであった。
「あの山伏姿のお方は、大塔の宮様でござる。われらはおあとをしたって、やってきたのだ。さらば!」
と、かけ去った。
「待って下さいッ!」
右左衛門は、はだしのままで表へ飛び出し、雪の上にペタンと坐った。
「もったいないことを……。お許し下さい。宮様とも知らず、餅はないなどとうそをつきました。」
右左衛門は狂人のようになって、残っていた餅を川へ捨てた。
「これからは子々孫々まで、決して餅をつきません。許して下さい」
というと弓矢をとってあとを追って行った。その後、この村では正月になっても餅をつかなかった。

その後のお話

  餅で正月を祝えなくなった小川を含む鮎川では、餅に代るものとして里芋を用い、大みそかになると親芋、子芋をお醤油で数時間たきつめて、正月の朝、男の人には親芋を、女の人には子芋を祝膳につける風習となり、正月に来客があれば、雑煮の代りに里芋を賞味していただきました。また、昭和10年7月25日に、京都の大覚寺で大塔宮護良親王の600年祭の大法要が営まれた時、本村から村長代理として、深見五右衛門氏、小川地区代表として、宮越多平、黒田音吉、山下円六の四氏がゆかりの粟餅を持参し、お供えしてお詫びを申し上げたということです。その後、正月には餅をついて祝うようになりました。
   
       小川地区

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