南高梅物語
無名の品種から優秀な南高梅(なんこううめ)を地域から掘り起こし、農林種苗登録から和歌山県の推奨品種に育て上げたのは、南部(みなべ)高校教諭の竹中勝太郎だが、本格的に栽培されるようになったのは小山貞一の力によるところが大きい。
彼が17歳の時、当時からすでに南部郷のどこの農家でも梅が栽培されていたが、そのほとんどは小粒の梅だった。もっとよい品種の梅を改良したいと考え、栽培研究を続けていたが、満足のいく品種の梅を作り出すことがなかなかできない。20歳になり徴兵、1年半後に帰ってきた時、叔父から「そんなに梅づくりをやりたいのなら、晩稲(おしね)の高田貞楠が作っている梅畑に1本だけすばらしい品種の梅の木があるから、穂木を分けてもらいにいってこい」と言われた。
高田貞楠は、最初は難色を示したが、貞一の熱心さに最後には快く承諾。この高田梅の1本の母樹から60本の穂木を切ってくれたのだった。
これが南高梅の栽培が広まる第1歩となった。昭和26年(1951年)、南部郷に梅優良母樹調査選定委員会が結成され、委員長に竹中勝太郎が就任し、貞一も委員の1人となった。
昭和40年(1965年)、「この高田梅を今後、南高梅という名称で農林登録したい」という話が竹中勝太郎から貞一にあり、承諾。貞一は高田貞楠にも承諾を求めた。
南高―とは、南部高校の略称の「南高」とも読め、また「南部の高田梅」の略称にもなる。まさに打ってつけの名称だったのだ。
|