紀州梅干しの歴史



梅の正式な学名

 『プルナス・ムメ・シーボルト・エト・ツッカリーニ』(Prunus Mume Siebet Tucc)。バラ科サクラ属の落葉高木です。原産地は中国の長江中流、湖北省の山岳部といわれています。


梅の原産地、中国

 原産地は中国の長江中流、湖北省の山岳部といわれています。
 中国では3000年以上前、すでに薬用として用いられ、遺跡の発掘においても副葬品として梅が出土する場合があります。


日本の梅のルーツ

 中国から伝来したとするのが通説となっています。1500年ほど以前に遣唐使(630〜894)が中国から薬用(漢方薬)の「烏梅(うばい)」という形で持ち帰り、当時から食薬として珍重されたものが最初と言われております。「烏梅」と相前後して入って来たであろう梅は、日本の風土気候によって、中国の梅とは品質の異なる日本独自のものに生まれ変り、今日では中国の梅を「杏梅」、日本の梅を「酸梅」といわれ日本の梅はすっぱく、有機酸の含有率の多い事が示されています。梅は、古くは万葉の昔から親しまれ、数多くの歌人による、梅にまつわる詩歌が残されており、この事からも、かなり古い時代から日本でも梅が栽培されていたことがうかがえます。


和歌山県の梅のルーツ〜

 本県に梅が多く植えられるように成ったのは、古くは奈良時代と考えられますが、記録に残るものでは、江戸時代、紀州徳川家の5代藩主・吉宗、紀州田辺藩家老職・安藤帯刀により、生産力の低いやせ地等を利用し、梅の栽培を奨励し、またそれにより年貢を免除する等の保護政策のもと、田辺・南部地方を中心として、栽培がさかんに成ったとされています。当時は、この梅を「ヤブ梅」とよばれていました。その後、梅の栽培が急激に増加したのは明治40年以降で、これは、日清・日露戦争当時及び、その後の相次ぐ戦後の食薬を兼ねた副食物として需要が増加したものであります。現在では地方に合った栽培技術の改良により、梅の種類は花梅で300種以上、栽培用実梅で20種以上が認められています。積極的な品種改良が、現在の生産量、品質共に日本一の産地を生み出したのです。


南高梅物語

 無名の品種から優秀な南高梅(なんこううめ)を地域から掘り起こし、農林種苗登録から和歌山県の推奨品種に育て上げたのは、南部(みなべ)高校教諭の竹中勝太郎だが、本格的に栽培されるようになったのは小山貞一の力によるところが大きい。

 彼が17歳の時、当時からすでに南部郷のどこの農家でも梅が栽培されていたが、そのほとんどは小粒の梅だった。もっとよい品種の梅を改良したいと考え、栽培研究を続けていたが、満足のいく品種の梅を作り出すことがなかなかできない。20歳になり徴兵、1年半後に帰ってきた時、叔父から「そんなに梅づくりをやりたいのなら、晩稲(おしね)の高田貞楠が作っている梅畑に1本だけすばらしい品種の梅の木があるから、穂木を分けてもらいにいってこい」と言われた。

 高田貞楠は、最初は難色を示したが、貞一の熱心さに最後には快く承諾。この高田梅の1本の母樹から60本の穂木を切ってくれたのだった。

これが南高梅の栽培が広まる第1歩となった。昭和26年(1951年)、南部郷に梅優良母樹調査選定委員会が結成され、委員長に竹中勝太郎が就任し、貞一も委員の1人となった。

 昭和40年(1965年)、「この高田梅を今後、南高梅という名称で農林登録したい」という話が竹中勝太郎から貞一にあり、承諾。貞一は高田貞楠にも承諾を求めた。

南高―とは、南部高校の略称の「南高」とも読め、また「南部の高田梅」の略称にもなる。まさに打ってつけの名称だったのだ。



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