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【書評】

『南方熊楠・萃点の思想』

鶴見和子著、松居竜五編集協力 藤原書店、2001年刊行

千本英史  

 一九九七年から九九年にかけて、シリーズ『鶴見和子曼荼羅』全九巻(うちでは第V巻水の巻に『南方熊楠のコスモロジー』として熊楠関係著作がまとめられていた)を完成させた藤原書店から、新しく『南方熊楠・萃点の思想』(A4版一九○頁、二〇〇一年五月三一日刊)が刊行された。

 鶴見和子氏は改めて紹介するまでもない、一九一八年生まれの社会学者だが、前記『南方熊楠のコスモロジー』にも再編吸収された日本民俗文化大系第四巻『南方熊楠―地球志向の比較学』(一九七八、後に講談社学術文庫に収録)は、初めて熊楠をその全体像で捉えた著作として知られる。

 今回の新著は、「あとがき」によれば、同書以降「一九九五年十二月二十四日に脳出血で斃れる(氏は、死と再生の意味を込めて、あえて「倒」ではなくてこの「斃」の字を用いている)までに熊楠について書いたもの」(これらは『鶴見和子曼荼羅』に収められている)に、編集協力として名が掲げられている松居竜五氏との「斃れてのちの二〇〇〇年十月一日におこなった対談」を加えたものである。

 何といってもこの巻末(四〇余頁)の対談が、アットホームな口調で思いが語られていて、読んでいてたいへんにおもしろい。

 鶴見氏は「最初に私が学問をはじめたのは、アメリカ哲学だから、いつでもアメリカ哲学を土台にしてすべてを見てる」(一四八頁)人物であるが、熊楠の基本もまた西洋的思考だという。「むしろ(熊楠は)西洋側の論理をわきまえて、そこからこっちを逆照射した、そういうことだと思うの。柳田はそれができてない。いつもこっちから見る。いつでも日本人はこっち側から西洋を見てるの。だけど南方は逆照射なの。西洋からこっちを見てる」(一五二頁)のだという。

 氏はまた、自らが女性であることが、男性とは違った視点を持つことに繋がっていることをいい、「私はもう命が短いから、自分が生きてる時間が短いから、これでいいわと思った方がいいと思うけれど、女はとてもそんなふうに考えられないのね。もっとずっと先の命というものがあり続けてほしいと思うのね」と述べる。そうしてその視点は熊楠と共通するものだという。「そういう意味で南方熊楠は男だったのか、女だったのか」(一七六頁)ということばは、熊楠を注意深く読んできた読者にとっては、虚をつかれながらも熊楠の本質に迫るものと受け取られるのではないか。彼には確かに、どこかしら無理をしながら偉丈夫を演じているようなところがありはしないか。

 一九四一年ヴァッサー大学哲学修士号取得、六五年ブリテッシュ・コロンビア大学助教授、六六年プリンストン大学社会学博士号(Ph.D)取得という氏の経歴や、開拓期の女性社会学者というポジションのいずれもが、南方熊楠との親和性をもって確認される。

 その時初めて、「今までは学問としてよりもおもしろい人間だということだけでやられていたでしょう。あれじゃあ、どうしようもない。確かに面白い人間には違いないんだけれど。日本における学者というコンセプトから非常にはずれてるからね」という発言に対し、松居氏が「鶴見先生ご自身も……少しはずれてる……」と突っ込んだことばに、「そうなの。全然外れてるから、外れて外れてちょうど出会ったような感じ」(一四○頁)という、本当に幸運な出会いがあったということであろう。なればこそ、氏は脳内出血からの「再生」後において、なお他の課題に優先して「熊楠との対話」を繰り返しているのでもあろう。

 しかしこのことは、一研究者が歴史上の一人物にたまたま出会ったということだけを意味してはいない。「日本」を無前提的に置く枠組み、男性中心主義の学問体系という枠組みの双方が、急速に力を失いつつある中で、いま南方熊楠を問うことが、単なる好事家的興味ではなく、かなり問題の本質につながる営為なのだということを示してくれているのである。

 この著の題名である『萃点の思想』の「萃点(すいてん)」については、前著でもかなり詳しく紹介されていたが、本書において、よりさまざまな表現で分析されている。

 この「萃点」なる語が現れるのは、一九〇三年七月十八日づけの土宜法竜宛書簡である。当時熊楠は満年齢で三十六歳、那智山・妙法山に籠って生物調査をしていた時期である。

 書簡中で熊楠は、後に中村元博士によって「南方曼荼羅」と命名されるに至るスケッチを示し、

 「この世間宇宙は、天は理なりといえるごとく(理はすじみち)、図のごとく(図は平面にしか画きえず。実は長、幅の外に、厚さもある立体のものと見よ)、前後左右上下、いずれの方よりも事理が透徹して、この宇宙を成す。その数無尽なり。故にどこ一つとりても、それを敷衍追求するときは、いかなることをも見いだし、いかなることをもなしうるようになっておる。

 その捗りに難易あるは、図中の(イ=中央部分)のごときは、諸事理の萃点ゆえ、それをとると、いろいろの理を見出すに易くしてはやい。」

というのである。

 「萃点」という語については、「熊楠の造語であろう」(「あとがき」)といわれているが、評者も漢文系の典籍や仏典など、ひととおり調べてみたが、今のところ先行の用例を得ない。「萃」は「萃聚(すいしゅう=あつめる・あつまる)」とか「萃美(すいび=よいものをあつめる)」、また「抜萃(抜粋に同じ)」とか使われることからわかるように、「あつめる」の意である。

 鶴見氏はこの「曼荼羅」について、

 「南方は真言密教の曼陀羅を考えていますから、まん中には大日如来がいるわけです。そして今度は因果というものを、偶然性と必然性と両方あるということをこのメチャクチャな図にしたんです。これをもって自分の学問の方法論とする。曼陀羅の手法をもって研究をすると研究がすすむということを言ったんです。」(一○五頁、上智大学人間学会での講演)

といい、チャールズ・パース(一八三九〜一九一四)の「実存的偶然性」の概念や、さらにはジャック・モノー(一九一○〜七六)の『偶然と必然』とに共通する、「世紀の変り目のパラダイム転換の予兆であった」(六四頁)と高く評価している。そして「萃点」は、「さまざまな因果系列、必然と偶然の交わりが一番多く通過する地点……そこから調べていくと、ものごとの筋道は分かりやすい。すべてのものはすべてのものにつながっている。みんな関係があるとすればどこからものごとの謎解きを始めていいかわからない。この萃点を押さえて、そこから始めるとよく分かる」(同)という。

 氏はさらにそこから「萃点移動」という観点を導く。「南方の場合には、移動するのよ。『萃点移動』と私はいうんだけれどね。萃点はいつでも一つではないのよ」(一五三頁)。「萃点は移動してもいいというゆとりが彼の中にあるということ。固定しなければならないという考えではないということよ。……私はそれを彼に教えたのは粘菌だと思うの。だから粘菌というのはすごく大事だと思う。彼の人文科学に対する見方にとって。粘菌というのは、アリストテレス論理学で分類できない」(一五七頁) 存在だからだというのである。

 ここには、単一の因果律から逃れ、複数の価値観を持とうと苦悩し、近代の「知」の枠組みを超えようと苦闘する人々への、先駆者熊楠の再評価の方向性が鮮明になされているといえるだろう。

 今日なお、熊楠への言及は「おもしろい人間だということだけ」に止まっている例が大半であろう。今後の作業は、神話化された熊楠をもう一度一九世紀後期から二〇世紀前半に生きた等身大の研究者として跡づけることであり、彼を祭り上げるのではなく、彼の中に胚胎していた可能性(彼自身がそれを十全に活かしきることはもとよりできなかった可能性)を私たち自身の仕事として、継承し、活かしていくことに他ならない。

 そうした作業の指針として、本書はさまざまに有用な助言を、端的に述べている。刺激的な一冊である。