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《ミナカタ通信10号 (1997.10.12) より》

[書評] 『アメリカからの便り 民権ブックス 10』

町田市立自由民権資料館編・町田市教育委員会発行 1997.3.31 発行

原田健一     

 本書は昨年(1996年)11月2日から12月1日まで、10周年リニューアルオープン記念として町田市立自由民権資料館にて特別展として開催された『アメリカからの便り− 1880/90年代の渡米青年たち−』の資料集として編集されたものです。内容は展示目録、記念公演・新井勝紘「在米民権家の行動と海を越えた連帯」、ならびに史料紹介(1〜7)、「在米邦人活動関係年表」で構成されています。

 特別展『アメリカからの便り』は町田市出身青年民権家・石阪公歴が自由民権の運動の嵐の中で新天地アメリカに希望を託し、1886 (明治19)年に渡米し、その後、日本の国会開設をひかえ在米日本人社会のなかで邦字新聞等を発行し亡命民権家として政治運動をおこしていく過程を軸に、そうした運動に関わった在米日本青年を広範囲にとりあげたものです。すでに知られているように、若き日の熊楠が在米民権家の運動と関わりをもっていました。これはこの展覧会の企画に関わっている新井勝紘氏、あるいは故長谷川興蔵氏の仕事によって明らかになっているところです。(今回の展示においても、熊楠のそうした関わりを明らかにする『珍事評論』等の資料が数多く展示されました。)

 特別展では、そうしたアメリカでの日本青年の活動がたどれるように、かなりの史料を集約し、所狭しと展示し濃密な空間を演出しており、展示のひとつの行き方として、手作りの温もりを感じさせる好い展示でした。しかし、人によってはあまりの史料の多さに圧倒されると同時に、消化不良をおこしかねないかもしれない。この展示の行き方は見に来る人にすでに事前の知識を要求するスタイルかもしれません。

 本書もその意味で展示目録、史料共にこれを読み解くにはかなりの力が要求されるものといえます。その点を配慮し、新井勝紘氏の記念講演「在米民権家の行動と海を越えた連帯」はこうした展示が可能になった、調査の端緒からその展開、ならびに今後の展望を分かりやすく語っています。また、それぞれの史料紹介の解説も分かりやすく読者を直接の史料におもむかせるような配慮がなされています。

 筆者は残念なことに最近のこうした明治初期の渡米青年の活動の研究動向を知らないので、ここでは本書全体の紹介というより、南方熊楠に焦点をしぼりながら問題点を考えました。

 まず、考えさせられたのは残された史料に偏差があるということです。渡米青年の軌跡をたどるにあたって民権運動という側面から光をあてているということもあります。しかし、それだけでなく在米青年の活動が、政治・社会的なものだったこと、それが残った史料の内容の幅を決定している点です。そのことが残った経緯・場所が、日本に帰国後も、政治・社会的な運動をした人々の所に集中することになります。また、そのことと同時に資料内容のかたよりも感じられるわけですが、やはりここで大切なことは残された史料をどうとらえ返していくかという視点だと思いました。

 かつてこうした領域の端緒になった、色川大吉氏の有名な「地下水論文」にはじまる『明治精神史』へと結実する仕事は、そうした政治・社会的な史料と北村透谷の残した文学的な資料を対比しながら、言葉にならなかった当時の人々の声を聞きだそうとする試みでした。

 新井勝紘氏をはじめとする今回の展示につながった調査・研究は当然それをふまえながら、民権青年の在米活動の意味を、自由民権の挫折と異国での延長戦という観点だけでなく、よりはばの広い視点のなかで捉えなおそうとする試みといえます。また、そうした試みのなかで南方熊楠が浮かび上がってきたともいえます。

 南方熊楠が東京留学時代に自由民権運動に関心を示していたことは、日記の記述によってすでに知られています。また、残念なことにまだ発見されていませんが、熊楠が常楠に自由民権の政治パンフレットを印刷してくれるように和歌山に送っていたことも興味深い事実でしょう。そうした熊楠的好奇心のおもむく地点に在米時代の「新日本新聞社」との交信がありました。これは武内善信「新日本新聞社からの手紙−熊楠と自由民権−」(『季刊・文学』 8-1)等によって明らかにされています。

 もちろんこれは事のおもて面です。血の気の多い南方熊楠とって、自由民権という政治運動の高揚に、自らの情動を沸き立たさずにおれないものだったことは間違いないものです。しかし、著者には熊楠という複雑な神経の持ち主にとって立身出世を志す政治青年、あるいはそれに反対する民権青年にも、その高邁な理想と情動に感応することはあっても、天下国家を論じる彼らの言葉の底にある傲慢さや、無神経さに興ざめを感じざるをえなかったのではないのかと推測しています。『珍事評論』に書かれた悪ふざけとも受け取れる文意はそうした人々から受けた熊楠の心の傷を示しているように感じられます。ここで筆者が気になるのはどこまで本気だったかは分かりませんが、自ら渡米前「……一大事業をなした後天下の男といはれたい」と語った青年特有の客気が徐々にはがれていき、そうした天下国家を論じる政治青年から離れ、名も知れぬ中国人やサーカス芸人といった人々の中へと歩みより、自らの情動を学問という局所的な世界へと封じ込めていった軌跡です。著者は在米時代の熊楠の実人生の軌跡に、熊楠的な「ヴェ・ナロード」の歌を聞くような気がします。「人民のもとへ」という熊楠的な実践、生活的な情動がみえかくれします。もちろん、熊楠はアメリカに行く船中でこうした無名の中国人との交遊があり、そうした人々との親近感をもともと隠していません。しかし、ある程度裕福に育った坊ちゃん的な生活環境と性格をもっていた熊楠が、あえてそうした世界へと身を乗り出していった、心の中での飛躍には、どこかに周囲にいた政治青年たちへの反発があったのではないかと思われます。そこには口先ばかりで本気で、人々のなかへとおり心交じらわそうとしない口舌の徒がいました。そして、彼らは爽やかな弁舌で田舎者の熊楠をあしらいます。もちろん、そこまで言えば在米にいた民権青年の熱意をおとしめることになるでしょうが、『珍事評論』の文中に見え隠れする口吻は、そうした人々から受けた熊楠の心の中の傷が叫びをあげていると感じさせます。しかし、熊楠の複雑な神経は、ただ痛みを痛みとして受け取るだけでなく、そのことでより熊楠をして自らの心の世界をのぞきこもうとする目と他者へと関わろうとする目を、同時に押し開く結果になったことです。そこに熊楠の神経の鋭敏さを感じます。熊楠の在米時代の仏教研究とサーカス巡業という二つのアンビヴァレンツな内と外への視線と行動が奇妙に交差していく点に、やはり注意しなければなりません。

 また、ここで熊楠的なキャラクターとして気を付けなければならないのは、熊楠が学問という局所的な場所へと自らの情動を封じ込めていったという点です。そこになんらかの意志があります。在米時代の生物標本の採集には、どこかで苦行といった面影が漂います。武内善信氏は先ほどの論文で「熊楠は、自由民権運動の活動家では決してなかった。基本的に、彼は非政治的人間である。民権運動との関係についていえば、シンパサイザーの域を出なかったと考えるべきであろう。」としているのは妥当な線と首肯されますが、その時の「非政治的人間」というニュアンスには複雑な色合いがあるとすべきと思われます。なぜなら、熊楠は確かに学問という世界に自らの情動を封じ込めることでマクロとしての政治からは離れた存在になったと同時に、学問という中で逆に自らの政治的な欲望を解放する術を身につけたと思われるからです。在米時代から十年以上たって、和歌山にもどり田辺に在住してから熊楠が積極的に関わっていく神社合祀反対運動には、そうした熊楠の心の底にある地下水脈的な流れがあります。熊楠は神社合祀反対運動を学問的な領域に問題を設定し、また地域を和歌山南部に狭めることで己の政治的情動を発露する道を見つけます。国会で自らの意見を代議士を通しながらという形にせよ、公にしようという姿勢には高度の政治性をみるべきです。熊楠は学問という領域に自らを封じ込めることで、現実的でミクロな、局所的な政治を発見しました。そこに自由民権というものに対する、熊楠的な反省があると考えるのは筆者の深読みでしょうか。どちらにしても、そこには政治の発見という問題があります。何に、どこに政治という局面を発見するか。政治的な想像力のありようが問われていると同時に、想像力ががいかに現実のなかで働くかという問題があります。筆者はその意味で熊楠に、同時代、同じように生物学的な側面から政治的な想像力を導き出したクロポトキンとの共時性を考えたりしました。

 どちらにしても、テクストを読むということは本来的に、そのテクストの内と外を読むものです。熊楠のテクストの内容を読みとることはもちろん、それが書かれた をいかに解いていくのか。その意味で本書は熊楠の在米時代について、あらたに外からテクストの読み直しをせまろうとしています。研究者のみならず、諸氏の一読をおすすめするしだいです。


[Photo: cover page]

なお、本書は通信販売にて購入できます。

〒195 町田市野津田町897 町田市立自由民権資料館

電話 0427-34-4508

定価500円(郵便為替)と送料310円(切手)を同封のうえ本書の題名を書き添えてお送り下さい。