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『南方熊楠を知る事典』−曽我部俊海(そがべ しゅんかい)

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II 南方熊楠をめぐる人名目録

水原尭栄 みずはら ぎょうえい 1890-1965

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 明治二十三(一八九〇)年生まれの真言学僧の逸材、水原尭栄は大正九年、十年と二度、南方に会っている。高野山金剛峰寺座主、土宜法龍の自室で。

 明治二十六年、満二十六歳の南方と三十九歳の法龍がロンドンで出会ってから実に二十四年ぶりの再会の場に尭栄はいた。

 二人の友情と、ほどんと冗談に見える論争、ユーモアと真剣が同時にあるこの二人の世に稀な出会いの再現が、この一室にもあったようだ。

 尭栄は南方の名を二十歳頃から知っていた。『太陽』の「十二支考」を読み、その後、京都御室にいた法龍に、南方とのロンドンの出会いや文通の内容などを聞いて驚いた。

 「縁があった」と思ったのだろう。

 法龍が管長として高野山に入り、尭栄は法龍とますます近くなる。

 この間、尭栄は高野山奥ノ院で数々の信者たちと会い、あるいは手紙などで彼らと応対しなくてはならない。目の前に、キツネつき、タヌキつき、死霊、悪霊、生霊がごろごろいる。精神医学の宝庫であり、民俗学の宝庫であり、人間の吹きだまりでもある。

 むろんたまったものではないだろうが、彼はただの仏教者ではなかった。法龍を通じて、南方にこれらの資料を送り、その地方的類例、あるいは外国における信仰についてまで聞こうとしている。

 大正十二年、土宜法龍は逝き、尭栄は法龍のかわりのように書きはじめる。南方もそれに答えている。

 けれどここに論争はほとんどない。尭栄が襟を正し、南方は奇も衒いもなく答える。

 尭栄は学僧だった。実に静かな学僧だった。そして『邪教立川流の研究』においてもなにか静かな学僧として立っている。

 南方との交流の中で、彼はおそらく密教成立の深いところ、仏教成立以前の生命史、存在史をあたためていたのかもしれない。彼は、あるいは反面教師としての「立川流」を見ていたのかもしれない。

 南方が「立川流」を本気で研究すれば実におもしろい我々の思想と身体と世界が浮かびあがったかもしれないが、下世話なことだろう。

 尭栄は真言仏教者として、南方は居士として、おそらくその立場を貫いた。この距離は美しい。 〔曽我部 俊海〕

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