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『南方熊楠を知る事典』−牧田健史(まきた けんじ)

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I 南方熊楠を知るためのキーワード集

ロンドン London

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 熊楠がアメリカからイギリスへ渡り、ロンドンに着いたのは、一八九二年九月二十六日で、彼が二十六歳の時だった。その後三十四歳まで、ほぼ八年間滞在することになる。

 当時のロンドンは、ロンドン特別区と二十八の首都区からなり、面積三百三平方キロメートル、人口約四百五十万人(現在の大ロンドンは、三十三の自治区で、面積千五百八十六平方キロメートル、人口約六百五十万人)。産業革命と工業の近代化で、経済的繁栄をきわめ、国富を築き上げたヴィクトリア朝の末代にあたり、その最盛期は過ぎていたとはいえ、いぜんとして「世界第一の都市」だった。

 熊楠のロンドン訪問には、定まった留学先や研究の具体的な計画といったものは、少なくとも表向きにはなかったようだ。ひとつには学校や研究機関の一部門の専門の勉強では納まりきらない、広範にわたる科目を網羅するような学問を志向していたからかもしれないが、ともかく文化先進都市としてのロンドンに引きつけられるようにして訪れたといえる。

 入港地リバプールからロンドンのユーストン駅に着いた熊楠は、駅のすぐ前に宿をとる。父親の死、それにはじめて経験するロンドンの冬をはさんだ苦境の数ヵ月を、この宿に籠もるようにして過ごす。上の方の安い室へと移り替えて最後は四階の室に住んだその建物は、今はなく、一帯は駅前広場となっている。

 二番目の下宿は、当時としてはロンドンの西はずれにあたる新興住宅地区ケンジントンの一角にあり、かつて「馬屋の二階」(「履歴書」)として伝えられていたところである(現在の家主によれば、たしかに馬屋の多かったところだが、この家は造りからもわかるように、馬屋ではなかったという)。

 すぐ近くに自然史博物館があり、当初は同博物館への便宜も考えてこの下宿を選んだふしもあるが、後に中心部の英国博物館に通うようになってからもここに留まって、五年近く住んだ。熊楠のロンドンにおける主要下宿である。

 現在ここは、老夫妻の住む落ち着いた住居で、熊楠が住んだ二階の部屋は夫妻の寝室となっている。書物と標本類で足の踏み場もなかった「何とも知れぬ陋室(ろうしつ)」(「履歴書」)というかつての面影はしのびようもない。

 なお、この家のある通りを曲がったすぐ角のところには、ヴィクトリア時代からあるという古いパブが今も営業しており、熊楠が町の角々のパブで一杯ずつ飲んで帰ったと書いていたのを思い出して、ひとりうなずいた。

 さて、当時のロンドンの町のようすだが、熊楠自身は街一般にはあまり興味がなかったようで、ロンドンのようすや物見遊山的な記録はほとんどない。勉強の場所さえあれば、街自体はどこでもよかったのではないかと思われるふしさえある。

 当時、つまり十九世紀末のロンドンは、近代都市として急激に発展した結果、すでに人口過密状態にあり、街は活況を呈し、道路の交通は混雑して路上だけでは収拾がつかず、緩和作として早くも街の一部で地下鉄が運行されていたほどだった。

 そうした繁栄の華やかさの一方で、近代産業文明のもたらす諸弊害に対する非難の声が早くも持ち上がっていた。煤煙と霧、いわゆるスモッグに全体がすっぽりと覆われてしまうことの多かったロンドンは、富と繁栄を象徴する荘重な建物の立ち並ぶ、全体として黒ずんだ大都市のイメージだったであろう。

 熊楠のロンドン滞在を、時期的、また内容的に通観すると、英国博物館と緊密な関わりを持った“博物館時代”を中心に、その前・後の三つに分かれているように思う。

 前期は、到着から博物館への途が開けるまでのほぼ一年間。下宿で主にアメリカで採集した動植物の標本作りと読書に費やした時期で、その後の進路の模索の時期でもあった。そのあとの五年余り、つまり一八九三年九月から一八九八年十二月までが、いわゆる博物館の時代で、三年半余りの図書館での勉強を中心とした、もっとも充実した時期。そのあと離英までの一年八ヵ月ほどは、自然史博物館や南ケンジントン博物館の図書館に通って勉強した時期で、余儀なく中止となってしまった英国博物館図書館での勉強の補足としてのものだったともいえるが、また謎としての部分もあるように思う。

 博物館での勉強が、彼の学問の基盤形成としての内面的なものであったとすれば、ロンドン時代の業績として見落とすことができない『ネイチャー』誌への執筆活動は、外向けの実践としての意味を持つものである。一八九三年十月の「極東の星座」をはじめとして、滞在中三十七の論文を発表して、まずはレギュラーの寄稿者として学問の実世界の一端に加わったわけで、実質上の学者南方熊楠はロンドン時代に誕生したといってもよかろう。

 学問生活がロンドン時代をつらぬく一つの大きな線とすれば、窮乏と波乱に富んだ日常生活、それに多彩な交友関係は、一つの紋様を織り成して異色である。

 まず父親の訃報に触れるという事態からはじまったロンドン生活は、精神的な打撃と共に経済的な困難に直面することになる。途絶えがちな生家からの仕送りで切り詰めた生活をして学問にはげむが、窮乏状態に陥ってしまう。やがて母親をも亡くし、仕送りはほとんどなくなってしまう。自らも翻訳や博物館などの仕事の手伝い、あるいは浮世絵商売に関係して多少は収入を得るが、しょせん焼け石に水。借金に借金を重ねる。悪いことに、なけなしの金で酒を飲む、喧嘩をする、人に乱暴する、といった荒んだ生活へと変っていく。次いで、頼みの博物館では殴打や騒乱のあいつぐ事件を起こして去らなければならない破目になる。なおも勉強と執筆は続けるが、生活はいよいよ逼迫(ひっぱく)し、結局滞在を断念、一九〇〇年九月ロンドンを離れる。

 しかし、ロンドンの生活、とくに英国博物館のフランクスやリードをはじめ、ディキンズや孫文などの数多くの人々との交友は、後々まで熊楠の心に残るものとなった。

 なお、熊楠が定住したロンドンの下宿は左記の四ヵ所である。

 このうち、(2)(4)の下宿の建物は今でもそのまま残っている。 〔牧田 健史〕

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英国博物館 The British Museum

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 「大英博物館」、「ブリチッシュ・ミュージュム」(「日記」他)などと熊楠が呼んで親しみ、後々の夢の中にまで現われるこの博物館は、ロンドン滞在中の主要な勉強の場所として、また館の内外の数多くの人々と親交を結んだ所として、ロンドン生活の中心的存在となったところである。

 この博物館は、医師であり古物収集家でもあったハンス・スローンの遺志が発端となって、一七五三年に国によって創設されたものである。古くからロンドンの名所の一つとしてよく知られている博物館だが、本来、図書類を主要なコレクションとして発足したもので、図書館を内設した研究者のための施設としての伝統を持つ。とくに十九世紀半ばに、大規模な円型閲覧室が新たに建てられて以来、図書館自体としても、規模・内容ともに世界有数のものとして博物館内に存続してきた(注=この図書館は機構上は、一九七三年に新設された英国図書館に統合され、博物館からは分離している。なお、場所的にも、図書館関係は、現在建設中の同図書館新館へ逐次移転することになっており、移転の最終は円形閲覧室で一九九六年の予定)。

 熊楠がこの博物館と緊密な関係を持つようになったのは、ロンドン到着後ほぼ一年経った一八九三年九月で、知人の紹介で博物館の英国・中世古美術および民族誌学部の部長で同館の理事であったフランクスの知遇を得たことによる。「それより、この人(注=フランクス)の手引きで(中略)直ちに大英博物館に入り思うままに学問上の便宜を得た」(「履歴書」)とフランクスとの初対面の時のことを述べた部分でいっているように、その後五年余り、博物館を中心とした学問生活“博物館時代”を送ることになる。

 熊楠は、フランクスが部長を務めていた英国・中世古美術および民族誌学部の仏像や神具などの収蔵品についての調査の仕事を、館内あるいは下宿で不定期的にしていたようである。同時に、館内の文献や資料への接近、利用の便宜を得ていたようだ。熊楠は博物館接近の当初から、図書館の利用を希望していたと思うが、正規の許可が与えられたのは一年半ほど経ってからである。館内部との接触もあり、有力なバックアップも得られたであろう有利な立場にあったにもかかわらず、これだけの時間がかかったのは、例えば、利用許可の条件が原則的に大学の課程を終えた専門研究者にかぎるというように厳しかったこと、それに加えて、当時は利用者の数が急激にふえた時期で、閲覧室は満席の状態が続いたといった事情によるものと思われる。

 熊楠がこの図書館で本格的に勉強するようになるのは、正規の利用許可を得た一八九五年四月からで、その後三年半余り通うことになる。その時筆写した大部分のものが、現存する「ロンドン抜書」で、後の彼の著作の貴重な資料となったものである。

 なお、熊楠の博物館への雇用計画説だが、当時は正式な職員としての雇用条件は非常に厳しく、たとえば英国国籍保有が資格の条件ひとつになっていたことからしても、熊楠の場合まず不可能だったといえる。ただ当時、とくに外国語を必要とする部では、語学スペシャリストとして特別に雇い入れる制度が新たに設けられており、実際、東洋図書部でも雇用の例があるから、同部のダグラス部長あたりが熊楠を薦(すす)めた可能性はあるが、実現はしていない。

 さて、熊楠が通ったこの閲覧室は、一八五七年に完成されたもので、以来、国内はもとより世界中からの数多くの学者、研究者が勉強の場としてきたところで、今なお閲覧室として存続している。当時、この図書館には世界中から集められた百五十万冊に近い蔵書があり、地域的にも、また時代的にも広範囲にわたる学問を志していた熊楠にとって、まことに都合のよい勉強の場所だっただろう。

 しかし、熊楠はこの閲覧室で、博物館の理事会で取り上げられるほどの事件を二度も起こしてしまう。一度目は、一八九七年十一月八日で、日頃彼を侮辱し、いやがらせをしていたという閲覧者を殴るという事件。理事会にかけられたすえ、幸い入館の一時停止処分で、この時はすんでいる。だがそれから一年ほど経った一八九八年十二月六日、同じ室で再び騒ぎを起こしてしまう。この時は、女性閲覧者の私語が原因となって館員との間で紛争となったもので、熊楠は閲覧室から追放され、再び図書館の利用許可が停止されてしまう。結局、熊楠は図書館での勉強を断念して、博物館そのものからも離れてしまうことになる。

 勉強の場であった博物館は、また熊楠にとって心のよりどころとしての人々との親交を育んでくれたところでもあった。とりわけ、フランクス、そして同氏とともに初対面の時から知遇を得、その後、熊楠の後見人的存在だったリード、東洋図書部長のダグラス、そして同氏の紹介による孫文といった人物は、博物館と結びついて後々まで熊楠の心に残った人たちである。

 最後に、熊楠の博物館への寄贈について触れておくと、彼は好意からよく人に贈り物をしたようで、英国博物館へも接触の当初から離れるまでに、全部で二十点ほど寄贈している。たとえば、博物館内部と緊密な関わりを持つようになってしばらく経った一八九三年十月には、鰐口(わにぐち)と香合(こうごう)を寄贈してトムソン館長署名の感謝状をもらった記録が日記に見られる。

 寄贈品は主に仏像、仏具といった小品だが、他に日本の装飾品や名所案内、美術世界シリーズなどの書籍も含まれている。いずれも熊楠の持ち合わせのものか、買える範囲内での寄贈であっただろうから美術品としての価値の高いものではないようだが、今でも何点かは博物館の収蔵庫に保管されている。 〔牧田 健史〕

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南ケンジントン博物館 The South Kensington Museum

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 現在のヴィクトリア・アンド・アルバート博物館。ロンドンの西南部、南ケンジントン地区にあって、美術・工芸品を主とする博物館である。

 この博物館の図書館は、隣接する自然史博物館の図書館と共に、熊楠が英国博物館を離れたあと勉強に通ったところである。

 もともと、近代産業にともなう美術と工芸分野の促進、それに関連作品の鑑賞を主目的とした機関で、各地に分設されていた関連諸機関が、一八五七年に現在の場所に統合移転され、さらに図書館などを増設して博物館となったものである。現在の建物は一九〇九年に完成したもので、熊楠が通った時のものではないが、その礎石は熊楠滞在中の一八九九年に設定されている。たまたま熊楠はそこの図書館で勉強していたようで、同年五月十七日の日記には「クヰン南ケンジントン館に来たり、アルバート・ミュジュムの石すゆ」の記録が見られる。

 この博物館は、熊楠が五年近くも住み、ロンドンの主要下宿となった家のあった(現在もそのままだが)ブリスフィールド通りの近くで、早くから訪れてはいたが、図書館の閲覧者として通うようになったのは、英国博物館を離れてしばらくした一八九九年四月からである。以後、帰国直前の一九〇〇年八月まで、一年半近く通っている。

 図書館に通うようになる直前の一八九九年三月、熊楠はこの博物館で日本美術品の題名翻訳などの仕事を二週間ほど手伝っている。「小生は今日王宮より勅命を受け、一日一ギネーで本職の仕事を申し付かったから、弥次北が富籤の札を拾うたごとく元気づき居り候」(福本日南(ふくもとにちなん)著「出て来た歟(か)」八坂書房版『南方熊楠百話』)というように、日記にも、二週間にわたり毎日午前十時から午後四時まで、きっちりと働いた記録があって「元気づき居り候」(前同)が如実だが、また熊楠の律義さの一面を見ると同時に、当時の逼迫した生活状況をも、その裏に見ることができるような気がする。ちなみに右の一文は、福本日南によって、熊楠がヴィクトリア女王下の王室から奨学給費の恩賜を受けることになったと解され、一般に誤伝されるもとになったものである。

 この図書館で勉強した時期は、昼間は自然史博物館の図書館、夜はこの図書館と続けて通っていることも少なくないし、ロンドン滞在中もっとも多くのページを筆写するといった拍車のかけ具合、それにその内容から察すると、帰国を意識した熊楠が、英国博物館で果たせなかった読書を補おうと努めていたものと思われる。 〔牧田 健史〕

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II 南方熊楠をめぐる人名目録

オーガスタス・W・フランクス Franks, Sir Augustus Wollaston: 1826-1897

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 イートン校、ケンブリッジ大学に学ぶ。文学博士、考古学者。英国古美術協会会長(一八九一〜九二年)。ナイト爵受勲(一八九四年)。

 一八五一年、英国博物館に入り、古美術部員となる。一八八六年、英国・中世古美術および民族誌学部を創設、みずから部長に就任、一八九六年に引退するまでその要職にある。晩年、博物館理事を兼務。

 十九世紀後半、とくに末期へかけて英国博物館が、規模的に、また内容の面でも著しく飛躍した時代の中心的人物。収集品を考古学上あるいは美術的価値の観点からとらえなおして整理統合し、博物館の学術的存在価値を大幅に高めた功労者といわれる。

 熊楠にとっては、ほかならぬ英国博物館への途を開いてくれた人物である。ロンドンで古美術商を営んでいたといわれる片岡という人物の紹介でフランクスの知遇を得たのは、ロンドン到着後、ほぼ一年経った一八九三年九月のことである。フランクスを博物館に訪ね、はじめて面会した九月二十二日の日記には、「午餐談話の後、館内の別室を開かれ、仏像、神具などに付尋問あり。リード氏一々ラベルに筆記す。畢て邸にかへり、談話の後、夕に至り帰る」(日記)とあり、昼食の饗応を受けたあと、夕方近くまで、初対面としては異例の処遇で、「……まるで孤児院出の小僧ごとき当時二十六歳の小生を、かくまで好遇されたるは全く異数のことで、今日始めて学問の尊ときを知ると小生思い申し候」(「履歴書」)と、のちのちまで、感動をこめて回想するところとなる。

 その後フランクスと、やはり前述の初対面の時から知遇を得た、同氏の部下であったリードを深く敬慕し、博物館へ二人を訪い親しく接する機会を得、部内の手伝いなどをする。博物館の大立て者であると同時に碩学でもあったフランクスが、身近な存在として熊楠に与えた影響は大きかったにちがいない。知遇を得た直後から学問熱の異常な高まりを記しはじめている彼の日記は、当時の刺激に呼応しているように思える。

 熊楠が面識を得たときフランクスは、すでに七十歳に近く、所定の停年を過ぎ、留任として職務にあった時期で、一八九六年には引退し、その翌年に亡くなっている。同年五月二十一日の熊楠の日記には、リードから死亡の知らせを聞いて「フランクス氏只今絶命とのことなり」とある。雑感を交えない短い記録だけに、その裏に深い感慨がこめられているように思える。 〔牧田 健史〕

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チャールズ・H・リード Read, Sir Charles Hercules Read: 1857-1929

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 古美術研究家・鑑定家、文化人類学者。英国人類学会会長就任(一八九九年)、英国学術協会H部会会長就任(一八九九年)、英国古美術協会会長就任(一九〇八年)、ナイト爵受勲(一九一二年)。

 若年にして南ケンジントン博物館(現・ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館)に入り、古美術・民族誌学部門の仕事に携わる。一八八〇年、フランクスの招きで英国博物館へ移り、英国・中世古美術および民族誌学部員となる。一八九六年、フランクスの後を継いで部長となり、一九二一年の退職までその要職にある。博物館終身理事。

 フランクスを補佐し、また同氏引退後はその部を率いて、十九世紀末から今世紀へかけて博物館が大きく発展した時代を支えた中心人物の一人で、とくに民族誌学の分野における功労者。

 熊楠にとっては、フランクスと共に英国博物館に関わりをもつようになった当初から知遇を得た人物で、その後、ほぼロンドン滞在の全時期を通して、学問上あるいは身辺上の恩恵を受けた、熊楠のいう「先生」としての存在だった。

 リードは初対面の時から、仏像や神具についての熊楠の説明を筆記しているほどで、彼の並はずれた知識に注目したようで、のちに熊楠に仏教関係を主とした調査の仕事を頼むことになる。リード自身も博覧強記の人だったといわれ、しかも実地の見聞と独学によって自己の学問を築き上げたという経歴は熊楠が共感したところで、互いに親近感を深めたようだ。初対面後まもなく、リードは自著の人類学の書を熊楠に贈っており、また自分の属する学会へ連れて行ったり、後年には人類学会へ熊楠の出席を要請したりしているほどで、学問の上での両者の親密な関係がうかがえる。

 一方、熊楠の図書館利用許可を得るにあたって、リードはその推薦人となり身元保証人となっている。また私的生活の面でも、熊楠を自宅へ招いて家族ぐるみで親しく交わり、熊楠の生活費の都合もいくたびかしているほどである。

 結局、熊楠は理事会の問題となった館内事件を二度も起こしてしまい、博物館を離れる結果になり、リードとの関係も薄れていく。しかし、その後、次第に生活の荒れを増していく熊楠を、リードはたしなめるなどして最後まで気遣っていたようである。 〔牧田 健史〕

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G・セント・レジャー・ダニエルズ Daniels, G. St. Lager Daniels (生没年不詳)

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 英国博物館の図書館に通って勉強していた熊楠が、その閲覧室で殴った一読者である。一八九七年十一月八日の出来事で、後日、この事件を討議した博物館の月例理事会の記録に、一読者として名前が記載されているだけで、その他については不明である(博物館の資料保存室にも、入館許可申請書など、この名前のものは見当たらないという。ただ、同時期、George Daniels 名の記録資料が残っているのがそうではないかという。この人物は一八九四年二月に、教会美術研究の目的で館の利用が許可されている)。

 ただし、熊楠の日記や二度にわたる閲覧室での事件の事情を説明した「陳状書」(熊楠が理事会に提出したもので、一八九八年十二月七日付、タイプ書き、大判用紙九ページにおよぶもの)から、この読者についていくぶん知ることができる。

 この読者が、熊楠と時期を重ねて長期読者として閲覧室に通っており、お互い近い席で勉強していたこと、しばしば熊楠を侮辱、嘲弄(ちょうろう)し、さまざまないやがらせをしていたこと。またほかにも同じような行為をする読者が何人かあった中で、この読者がリーダー格であったこと。熊楠は、閲覧室での勉強を終えた後、これらの行為者に対して報復措置をとるつもりでいたが、事件数日前の最悪の行為(新調のシルクハットにインクをかけられる)に遭い、やむなく、勉強の計画半ばで、報復の行為をとる意を固め、この読者を殴打したこと、などである。

 なお、この事件後の翌年二月には「博物館にて前年打ちやりし奴に唾をはきかけ、同人予の席へ詰りに来る」(日記)と、再び二人の間が危うい状態になっているが、幸い、そのときは大事に至らずにすんでいる。この読者が、ウィルソン監督官に訴えたものか、後刻、熊楠は同監督官から、この読者に陳謝するよう要請した手紙を受け取っている。熊楠は、ひとまずそれに応じている。ひとまず、といったのは、自分では承服しかねたようで、知人に相談したりして、渋ったと思われる経過があるからである。ともあれこれを最後に、特にこの読者だと思われる人物との問題はその後の記録にはない。

 なお、この読者を殴打した事件と後の騒乱事件におよぶ事情を説明した「陳状書」は、例によって、出生の時点から書き起こすといった風の、陳状切々たるものである。しかし、殴打に及んだ事情説明では、この閲覧室の諸状況、たとえば、ここの読者は大学出身程度を定限条件として厳選されるものであり、諸規律もより厳しかった時代のことであるから、相当に厳粛な雰囲気だったと思われるなどを考えると、「陳状書」に述べられているようないやがらせや露骨な妨害行為は、とてもそのままには信じ難い。だが、熊楠自身も弁明しているように、報復行為としてとった手段はまちがったものであったにせよ、その動機、理由そして感情は十分、首肯できるものであり、熊楠の義憤が強く感じられる。 〔牧田 健史〕

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エドワード・M・トムソン Thompson, Sir Edward Maund Thompson: 1840-1929

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 古文書学者、歴史学者。熊楠が通った英国博物館の当時の館長。法律を勉強、法廷弁護士の資格を得るが、史学、古文書学に興味を持ち、一八六一年、英国博物館館員となる。館長室勤務ののち、写本部へ移り副部長となる。一八八八年、館長に就任、一九〇九年に館を引退するまで同職にある。

 優れた古文書学者、歴史学者として博物館の仕事にあたり、また有能な管理者として、十九世紀末期から今世紀へかけての、いわゆる変動と飛躍の時代の博物館を率いた人物といわれる。

 部内接近の時期を含め熊楠が博物館へ通った五年余りは、トムソンが館長として六年から十年目にかけての時期で、さらにそのあと十年余りも続こうという、いわば全盛の時代だった。体格のいい、威風を漂わすような風貌だったといわれるトムソンは、館の内部へ出入りしていた熊楠の方からは見知るところであったろう。公的、間接的には、熊楠が博物館へ贈った寄贈した品(熊楠は仏像など全部で二十点ほど博物館へ寄贈している)への感謝状の贈り主として、また、図書館の正規の利用許可の授与者として、当初から日記にはトムソンの名前が見られる。

 ところが、その館長との間に直接の関係が生ずることになる。まず最初は図書館の閲覧室での殴打事件の時で、熊楠は一読者を殴ったあとトムソンを罵っているが、のちに熊楠は、その時、館長から事情の説明を求められた、といっているから、同室の監督官とともに館長が直接制裁に関与したものと思われる。

 館長裁量で図書館利用の一時停止を熊楠に通告したトムソンは、後日の理事会で事件のさらに詳しい調査を依頼され、結局、事件の当初から解決まで、直接関わるかたちになる。

 熊楠の陳謝と以後の規律厳守の誓約でこの一件は決着することになるが、それにしても、すでに六十歳に近い、いつもは周囲を威圧するようなトムソン館長が怒り狂わんばかりの外国人青年から罵倒を浴びせられたというのだから、驚いたであろうし、また特異な人物として熊楠は少なからず印象に残ったであろう。

 ところが、それから一年ほど経って、やはりこの閲覧室で熊楠が起こした騒動事件(読者の私語を止めさせようとして騒ぎとなった)で、トムソンは館長として理事会に報告、再度、熊楠と関わりあう破目になる。再び図書館の利用を停止された熊楠は、結局、博物館を離れることになり、トムソン館長との関係も切れることになる。 〔牧田 健史〕

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ウィリアム・R・ウィルソン Wilson, William Robert Wilson: 1844-1928

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 英国博物館の図書館で勉強していた熊楠が、その閲覧室で殴打事件を起こしたときの同室の監督官。一八六三年、博物館刊本部の部員となる。一八九六年から四年間、刊本部内閲覧室監督官(リーディングルーム・スーパーインテンデント)を務める。その後、同部の副部長となり一九〇九年に停年退職。

 博物館図書館の刊本部一途に、四十五年間勤めあげた人物だが、学者として、あるいは博物館史上に、とくに名を残すほどではなかったようである。温厚な人柄で、仕事熱心、とりわけ対人関係の柔和さが当時のトムソン館長に買われて、監督官に抜擢されたという。

 この監督官職は、一八五七年に新しい閲覧室ができたとき設けられたもので、ウィルソンはその五代目。文字通り閲覧室内の監督、采配をするものだが、同時に、図書の内容に関する読者の質問に応ずるといったことを主務とした(現在でも同閲覧室内の中央部に監督官の席があって、職名も同じだが、図書内容の問い合わせに関する仕事が除外されるなど、その機能は異なる)。

 ウィルソン監督官のもとで、一読者として勉強していた熊楠が、直接関係の存在になるのは、前述の事件のときで、一八九七年十一月八日のことである。「午後博物館書籍室に入りざま毛唐人一人ぶちのめ」(日記)し、そのあと「大騒ぎとなり」(日記)の次第は、後日、この事件を取りあげた理事会にウィルソンが現場の責任者として報告しており、事態が容易でなかったことがうかがえる。

 このときは幸い、閲覧室利用の一時停止処分だけですみ、熊楠は再び閲覧室で勉強を続けることになるが、その後、熊楠が要注意人物として警戒視されたであろうことは想像に難くない。しばらく経った翌一八九八年二月、再び同室で、熊楠と同じ読者との間に一悶着あるという事態が起こっている。おそらくこのときはウィルソンが仲裁に入ったのではないかと思われるが、とくに大事に至らずにすんでいる。しかし、ウィルソンはそのあとすぐ、相手の読者に陳謝するよう要請した手紙を熊楠に送っている。熊楠は知人のディキンズに相談、彼を通して不承不承この要請に応じている。

 そのあと、再びウィルソン監督の下で読書を続けていた熊楠は、その年の十二月、また同じ室で騒乱事件を起こしてしまう。女性読者の私語を止めさせようとして、館員との間で紛争となったものだが、この時はウィルソンは閲覧室にいなかったようで、監督官代理が事件の処置にあたり、熊楠は閲覧室から追放されている。再び理事会で図書館の利用を停止された熊楠は、ついに閲覧室での勉強を断念することになる。それにしてもウィルソンは、閲覧室内の殴打沙汰というまことに珍しい事件を含む、二度にわたる理事会検討問題を引き起こした熊楠が通った当時の閲覧室責任者として、同図書館史上でも希有な経験をした監督官だったといえよう。 〔牧田 健史〕

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