『南方熊楠を知る事典』 < [関連書籍紹介] < [南方熊楠資料研究会]


『南方熊楠を知る事典』−飯倉照平(いいくら しょうへい)

[項目一覧]

I 南方熊楠を知るためのキーワード集

楝(オウチ)

[このページのはじめへ]

 南方熊楠は、亡くなる前夜、枕もとにいた娘の文枝さんに、「天井に紫の花が一面に咲き、実に気分が良い。頼むから今日は決して医師を呼ばないでおくれ。医師が来ればすぐ天井の花が消えてしまうから」と頼んだという(「終焉回想」)。文枝さんによれば、「父は毎年六月頃に花を咲かす庭の大きな楝(オウチ)の木を愛していた。昭和四年六月一日の御進講の日は、ちょうど門出を祝福するが如く、紫色の楝の花が空一面に咲き誇っているのを満足そうに見上げていた」から、それを想い出したのかもしれないという。末期の幻覚にあらわれた紫の花は、かならずしもオウチと特定しない方がいいような気もするが、熊楠にとってのオウチは、そうとられてもおかしくない因縁のある花であった。

 三重県生まれの佐佐木信綱の「夏は来ぬ」に「楝ちる川べの宿」とあるように、関東以南の暖地の海岸に近い土地などでは、オウチは日陰をつくるためによく植えられる木であり、実が運ばれればどこにでも生える。筆者は、熊野本宮の河原にある旧社殿址で、何十メートルかと思われる巨木を見たことがあるから、神島に生えているのも当然だろう。熊楠は、「紀州田辺湾の生物」で、「神島の楝花も、時に取って紫藤(ふじ)にまさりてみゆることもありなん」とし、「有難(ありがた)き御代にあふちの花盛り」という、御進講に先立って詠んだ自作の俳句を書きそえている。

 なお、オウチを俗にセンダンと呼ぶが、「栴檀(センダン)は双葉より芳(かんば)し」とされるインド伝来の香木のビャクダンとは別種であり、オウチの葉や実などに芳香はない。「紀州田辺湾の生物」に書かれているように、中国では、その葉が邪悪を避ける働きがあるとして、五月五日に屈原を祭って川に投げこむチマキに添えたりした。日本で罪人の首をさらす獄門の木とされたのも、その働きで死霊を鎮めたのであろう、と熊楠はいう。宮尾登美子は、高知では、その木で下駄を作る話を書いている。紫色の小さな花は、明るい初夏の光のなかでは、あまり目立つものとはいえない。しかし、日本統治下の台湾で小説を書いていた呉濁流(ごだくりゅう)の『アジアの孤児』の巻頭の章が、「センダン(苦楝)の花の咲く頃」と題されていたのには驚いた。湿潤な気候に生きる人々のこまやかな神経が、たがいに相似て、その微細な造化の妙に心ひかれるのであろうか。〔飯倉 照平〕

[ウェブ公開時追記:飯倉照平『中国の花物語』集英社新書(2002年)の第10章「センダン」もご参照ください。]

[『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

酉陽雑俎(ゆうようざっそ)

[このページのはじめへ]

 『酉陽雑俎』は、唐の段成式(だんせいしき、八〇三?〜八六三)が九世紀中葉に編纂した百科事典的な書物で、前集二〇巻と続集一〇巻をあわせて全三〇巻から成る。道教や仏教から、天文や年中行事、説話の考証から動植物の記述にいたるまで、人文科学から自然科学の広い分野にわたる内容を網羅した、唐代の知的世界のパノラマといえる。元禄一〇(一六九七)年に京都で翻刻された和刻本があり(ただし訓点には誤りが多い)、その縮印本が『和刻本漢籍随筆集』(汲古書院)に収められていて入手しやすい。平凡社の東洋文庫に今村与志雄(いまむらよしお)による詳細な訳註本全五冊があり、その後、中国で方南生(ほうなんせい)の校訂による活字本が出た(中華書局、一九八一年)。

南方は和刻本の全五冊を、和歌山中学にいたころから見ていたらしい。イギリスで『ネイチャー』に論文を発表しはじめてまもなく十五、六歳のころ同書で見出したという材料をもとに、動物が環境によって色を変えるという「保護色論」を書いた。かねてから「東洋またおのずから固有の文物学術あり、多くの起源、若干の興廃もあったので、不断西洋に劣ったでなければ永久彼に駕する見込みなきにもあらざること」(「酒泉等の話」)を西洋の人々に認知させることを自分の任務と考えていた南方は、それによって「大いに東洋人のために気を吐いた」と自ら誇っている。このほかにも英文の論文には、『酉陽雑俎』を材料としたものが多い。

 動植物の項目では、その「不思議な菌(きのこ)」についての詳細な描写に、コムソウダケのある種を眼前にするような正確さがあり、また水網藻の記述からは、すでに藻類のアミミドロの知られていたことが分かるとして、それぞれ英文の報告を書いている。さらに外国の植物の記載に添えられたペルシア名やアラビア名などは、唐代の国際的な交流の広がりを反映して、著者の「智識を求むる用意きわめて周到なりし」をうかがわせるとも語っている。

 また、江戸時代に松下見林(まつしたけんりん)の『異称日本伝』ですでに紹介されていたことだが、インドを訪ねて帰り、段成式とも面識のあった「倭国僧(すなわち日本人の僧侶)金剛三昧(こんごうざんまい)」の記述についても、南方は一方ならぬ関心をよせていた。アメリカにいた一八八八年六月二十一日付日記の欄外に「金剛三昧を求む」とあるのも、当時『酉陽雑俎』を読んでいた痕跡であろう。日本ではその事蹟のまったく知られていない僧侶が、インドまでも渡り、しかも中国の知識人と交遊があって、その著書に名を残していることに、南方はおそらく自分の身の上とも重ねあわせて関心を寄せていたにちがいない。 さらに『酉陽雑俎』の説話研究上の価値については、「その続集巻四、特に貶誤(へんご、誤用をたどる意)部を設け、多く旧伝古話の起源と変遷を述べたるは、西人に先立ちて、比較古話の学に着鞭せしものとして、東洋のために誇るに足れり」(『大日本時代史に載する古話三則」)と高く評価した。この論文の「延喜聖主(えんぎせいしゅ)、女の哭くを聴きてその姦を知りたまいし話」の項のほか、「飛行機の創製」(魯般・ろはん)や「親の言葉に背く子の話」(渾子・こんし)などは、いずれも貶誤部に見える話によっている。また別の巻だが、御伽草子の「ささやき竹」にも翻案された寧王の話は、「美人の代りに猛獣」と「女と畜生を入れ換えた話」でかさねて取り上げている。

 とくに続集巻一の「葉限(ようげん)」という娘のシンデレラ型の話は、現在の広西チワン族自治区にあたる地域の出身者である李士元(りしげん)からの聞き書と明記されていて、近年の同地域やベトナムで採集された類話ともたがいに合致して、当時の昔話の確かな記録であることが推定される。いわゆるシンデレラ譚は、十七世紀に出たイタリアのバシレの『ペンタメローネ』やフランスのペローの『昔話集』に見えるものが、ヨーロッパではもっとも古い記録とされている(山室静『世界のシンデレラ物語』ほか)。とすれば、それより数百年も早い『酉陽雑俎』の記載は、昔話の型にいくらか違いがあるとしてもきわめて貴重なものであることがわかる。 南方は、その話をアメリカ時代に読んで気づいていたというが、一九一一年に「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」を書いた時、南方は国際的な比較についての文献を手にしていなかった。また、『酉陽雑俎』の記録とヨーロッパのそれとの伝承上の関係については、なにも言及していない(現在でも、その関係はなお解明されていないが)。しかし、「上に引ける葉限の物語は、往古南支那土俗の特色を写せる点多く、これを談(かた)りし人の姓名までも明記したれば、その里俗古話学上の価値は、優に近時欧米また本邦に持て囃(はや)さるる仙姑譚、御伽草紙が、多く後人任意の文飾脚色を加え含めるに駕するものと知るべし」と正当に評価している。

 おなじ続集巻一にある新羅の「旁〓*(ぼうい)」の話を、南方は「鳥を食うて王になった話」と「一寸法師と打出の小槌」で取りあげ、「鬼の瘤取の物語の根本らしい、と古人は論じた」とのべ、その呪宝としての打出の小槌はインドに由来するのではないか、としている。この話は、近年採集された昔話では、朝鮮の「金の砧、銀の砧」、中国の「長い鼻」などに近いが、ほかの「腰折れ雀」や「瘤取り爺」系統の話とも共通する、複雑な要素をあわせ持っている。〔飯倉 照平〕

*「い」: [ノ+−+也](「施」の「方」をとる)

[ウェブ公開時追記:飯倉照平「『酉陽雑俎』の世界」(季刊『文学』8巻1号、岩波書店、1997年)もご参照ください。]

[前の項目へ] <p> [『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

五雑組(五雑俎)(ござっそ)

[このページのはじめへ]

 中国明代の随筆集。著者謝肇淛*(しゃちょうせい)は、あざな在杭(ざいこう)、福建の出身だが、役人として各地を遍歴した。万暦年間(一五七三〜一六二〇年)末期の著作とされ、天・地・人・物・事の五部全十六巻に分かれた百科事典風の構成となっている。書名は「五部を雑(まじ)えた組(くみ)ひも」の意で「五雑」と書くのが正しいが、「五雑」と表記する場合も多く、南方も両者を混用している。南方家に残されているのは寛文元(一六六一)年の和刻本全八冊で、その縮印本が『和刻本漢籍随筆集』(汲古書院)に入っている。また中国では活字本もあり(中華書局、一九五九年など)。『中国古典文学大系』第五五巻(岩城秀夫訳)と『中国古典新書』(藤野岩友訳)に抄訳がある。[ウェブ公開時追記:岩城による全訳が、平凡社・東洋文庫から全8冊で刊行された(1996〜1998年)。]

*淛「せい」: [さんずい+制]

 中国では清代に禁書とされ、あまり流布していなかったが、日本では江戸時代に和刻本が出て、よく読まれた。藤野岩友によると、『和漢三才図会』には『五雑組』からの引用が九十か所もあり、そのために『五雑組』の書名が広く知られたのであろうという。南方は、一九〇四年一月に土宜法竜にあてた手紙のなかで「『五雑俎』は、ほら吹くとき座右に欠くべからざるものにつき譲り受けたきに候。ただし、貴下も必ず一本を座右に置き、時々一覧して注でも入れたら大いに博学の便りとなるなり」と語っている。『酉陽雑俎』に次いで、南方がしばしば利用した書物である。

 アメリカから友人の喜多幅武三郎にあてた手紙に、「『五雑俎』と申す支那の四角な書物にいわく、古人は猥(みだ)りに寒喧(かんけん)の書を作らず、と。拙者もその古人を見習うてか、昨年以来は大いに御無沙汰、まことに相済み申さず」(一八九一年八月十三日付)とあるから、当時から『五雑俎』には親しんでいたのであろう。ロンドンで土宜法竜にあてて書いた手紙にも、「江を渡り、中流にして風浪作(おこ)れば、たとい舎(す)てざらんと欲すとも、逃れてまたいずくにか之(ゆ)かん」(一八九三年十二月二十一日付)を引いて、死に直面したさいの人の覚悟について謝在杭の見識に共感している。「『五雑俎』に、景物悲歓何の常かこれあらん、ただ人のこれに処する如何(いかん)と言うのみ。『詩』にいわく、風雨晦(かい)のごとし、鶏鳴いて已まず、と。もとこれきわめて凄涼の物事なるを、一たび点破を経れば、すなわち佳境と作(な)る、と。されば、ゲーテは、いかな詰まらぬことをも十分に文想を振るうて、しごく面白く詠んだ、とショッペンハウエルは讃めたと記憶する」(「鶏に関する民俗と伝説」)というくだりを、南方はそれ以前にも土宜法竜宛の一九〇三年六月三十日付の手紙で興味ぶかく言及している。ここにはいかにも南方らしい書物の読み方が見てとれよう。もちろん南方が『五雑組』から引いたことの大半は、あるいは倭寇や倭画など日本についての記述であり、あるいは男色や宦官や半男女など異風異俗の記述であったとしても、それに止まらない深さをもあわせ持っていたのである。〔飯倉 照平〕

[前の項目へ] <p> [『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

水滸伝

[このページのはじめへ]

 中国明代の長編小説。作者は羅貫中(らかんちゅう)、施耐庵(したいあん)らの名を冠するものが多いが、正確には分からない。北宋の末期、十二世紀初頭の実在の人物と事件を核として、民間の語り物や演劇のなかでしだいに物語化され、十四世紀後半、すなわち明代初期に大成された、と考えられている。さまざまな版本があり、百回本や百二十回本などをもとに、明末清初の批評家金聖嘆(きんせいたん)が七十回本に改作したものが、もっとも流行した。日本でも、江戸時代以降、多くの翻訳が出たが、七十回本がもっとも広く読まれたという。

 南方は、その『水滸伝』を、「二十九年前、予米国フロリダ州に流寓し、到る処、支那人に寄食し、毎夜彼らが博奕する傍で『水滸伝』を借覧してみずから娯しんだ」という(『水滸伝』について)。フロリダにいた一八九二年五月十三日の日記には、ニューヨークの中国人の店に頼んでおいた「西廂記六冊、水滸伝十二冊、三国志二十冊」が届いたとあるから、借りて読んだあとで買ったのかもしれない。なお南方家の書庫に現存する『繍像(しゅうぞう)第五才子書(水滸伝)』は、全七十五回十二冊で、光緒九(一八八三)年、粤東省(えっとうしょう)第六甫麟玉楼蔵板とあるから、この時に購入したものであろう。

 その「『水滸伝』について」と題する文章では、「当時この書について思い付いたことどもを注した物、現に座右にある」とし、金聖嘆が百二十回本の『水滸伝』を七十回本に作りかえたのは腰斬だという先人の意見に同意し、さらに、その構成に漢訳仏典の影響があるのではないかとも指摘している。

 ところで、まだ南方がランシングの州立農学校にいた一八八八年十月十日の日記に「夜、岡野氏室に水滸伝及赤垣源蔵伝を演ず」とあるのは、何を演じたものか。南方の『水滸伝』への共感は、おそらく官権への徹底した反逆に生きた宋江に由来するものであったろう。後年、友人の土宜法竜にあてた手紙では、宋江を自分になぞらえ、「むかし宋江、三十六人を率いて河南に横行す。侯蒙(こうもう)、宋帝に上書していわく、この輩(やから)、賊なりといえども、わずかに三十六人にして天下を物ともせぬは、必ずその為人(ひととなり)の異常なるなくんばあらず、朝廷よろしく採用して国難を理せしむべし、といえり」と述べたのち、「まことに然り。もし伝説のごとく多く酒飲んで」うんぬんと、わがことに引き寄せて語っている。

 また「予若き時、支那の博徒間に寄食し、毎夜『水滸伝』を読んで、今も多くその妙文拍案のところを暗(そら)んじておる。その中の一豪傑の詞に、われ行くに姓を改めず、住(とど)まるに名を更めず、とあるを見て、誰もかくこそあるべけれ、人間運拙(つたな)くていかに究すればとて、父母が付けられた姓名を須臾(しゅゆ)も改むということのあるべきと思い定め、いかな窮境に陥るも始終姓名を詐(いつわ)ったり、字とか号とかを使うたことなかった……」(「岩田村大字岡の田中神社について」)とあるのは、乃木希典が明治天皇に殉じて自刃したさい、これを非難する意見がいくつか出たのを見て、熊楠が角屋蝙蝠(かどやこうもり)の筆名で「自殺につき」という一文を書いて釈明したいきさつにふれたものである。『西遊記』では、「おまえは本物か」と聞かれた孫悟空が「君子はいかなる時も本名で通す」と開きなおって、このことばを口にするほど常套的なせりふであったらしいが、南方にとって、それは一つの生きる姿勢を示すものであった。

 「『水滸伝』は、官を賊となし、賊を官とせる書なりと申し、奇代千万なことと存ぜしに、あに料らんや、当県は目下そのごとく」と神社合祀に反対する手紙に書きつけた熊楠は(松村任三宛書簡、一九一一年八月、全集七巻五一一頁)、その「官を賊となした」豪傑たちの生きざまに、いたく共感を寄せていたかに見える。

 いわゆる「履歴書」のなかに、「この大英博物館におよそ六年ばかりおりし。館員となるべくいろいろすすめられたれども、人となれば自在ならず、自在なれば人とならずで、自分は至って勝手千万な男ゆえ辞退して就職せず、ただ館員外の参考人たりしに止まる」というくだりがあるが、この「人となれば自在ならず、自在なれば人とならず」ということばは、もと朱子の手紙に見えるというが、小説などでもよく使われる。ここでは出典を『水滸伝』としていないが、別の個所では、「『水滸伝』の宋江の語」(寺石正路宛書簡、一九一七年二月、全集九巻三五九頁)と明記している。「たとい一人前の扱いを受けられないとしても、拘束をきらって自由に生きたい」という点では、そのまま熊楠の人生を凝縮した言葉とも読める。〔飯倉 照平〕

[前の項目へ] <p> [『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

類書(るいしょ)―中国の百科事典

[このページのはじめへ]

中国で類書と呼ばれるのは、さまざまな書籍に見える事物の記述についての引用を、独特な体系によって分類配列した、いわば資料集成による百科事典で、たいていは皇帝の命令で動員された学者たちが編纂にあたる勅撰で、その王朝の文化的な達成を誇示する役割をも持っていた。唐代の『芸文類聚(げいもんるいじゅう)』全百巻や宋代の『太平御覧』全千巻は、その代表的なものである。南方のよく利用した『酉陽雑俎』や『五雑組』も、たしかに百科事典的な内容と構成をもっていたけれども、それは個人の著書であることで、類書とは性質を異にしていたといえよう。とりわけ南方がよく利用したのは、『淵鑑類函(えんかんるいかん)』と『古今図書集成』で、ともに清代の類書である。

 『淵鑑類函』全四五〇巻目録四巻、清・張英(ちょうえい)等編、一七一〇年刊。天、歳時、地、帝王にはじまり、花、草、木、鳥、獣、鱗介(りんかい)、虫豸(ちゅうち)におわる四十五部に分かれている。最近は何種類かの縮印本が出ている。南方は原刊本で一六〇冊にもなる大部のものを、大英博物館に通いはじめてまもない一八九五年五月に購入し、自分の下宿に積み上げている(「ロンドン日記」)。また後年、柳田国男にあてた手紙で、「『淵鑑類函』だけは、貴下の手許に一本を備えおき、事あるごとに目録で見出だし、類似のことを見出だされたく候。まことによき書に候」とその有用なことを述べている。しかし、その一方、上松蓊にあてた手紙では、「『淵鑑類函』等手元にある類書には引用の文が本文通りならず、大いにへまをやらかすことしばしば有之候」とも述べて、その欠点についてもよく知っていた。

『古今図書集成』全一万巻総目四〇巻、清・陳夢雷(ちんぼうらい)原編、廷錫(ていしゃく)等重編、一七二六年完成。全体が暦象(れきしょう)、方輿(ほうよ)、明倫、博物、理学、経済の六彙編に大別され、さらに三二典、六一〇九部に分かれている。中国ではもっとも規模の大きな類書で、最近は縮印本が出ている。「予往年ダグラス男より特許を得て、『古今図書集成』を大英博物館の東洋読書室外に持ち出し、勝手次第に諸邦異方の書籍と対照せしことあり」(「古谷氏の謝意に答え三たび火斉珠について述ぶ」)というように、利用しはじめたのは早かったが、上海にいた旧友の中井英弥にたのんで買い入れたのは一九三一年のことであった。その地方誌(「職方典」)などの書き抜きを、南方は何度もおこなっている。〔飯倉 照平〕

[前の項目へ] <p> [『南方熊楠を知る事典』目次へ] <c> [次の項目へ] <n>

III 南方熊楠主要著作解題

柳田国男 南方熊楠往復書簡集 1911-1916

[このページのはじめへ]

 日本民俗学の父を柳田国男とする考え方に対し、柳田はむしろ母というべきで、南方熊楠が日本民俗学の父であるとのべたのは、宇野脩平である。いずれにしても、この二人の出会いが日本民俗学の形成に決定的な意味あいを持っていたことは確かである。二人が知りあった最初のきっかけは、一九一〇年に出た柳田の『石神問答』と『遠野物語』を南方が読み、さらに南方が一九一一年に雑誌に発 表した「山神オコゼ魚を好むということ」を柳田が見て、同年三月、柳田が「突然ながら」南方にあてて手紙を書いたことに始まる。

 一九一一(明治四四)年三月から一九二六(大正一五)年五〜六月にかけて両者のかわした手紙は、南方から柳田にあてた一六一通(すべて平凡社版『南方熊楠全集』に収める)、柳田から南方にあてた七四通(『定本柳田国男集』に収録されているのは、そのうち二六通のみ)が現存している。このほかになお欠落した手紙のあることは、その内容からも判断される。

 また南方から柳田にあてた手紙のうち、一九一三(大正二)年四月二十二日付の分までは、柳田が人に頼んで写させた「南方来書」が成城大学柳田文庫に残されている。しかし、乾元社版全集編集のさいあったはずの原手簡は、平凡社版全集編集のさいは大半の所在が不明となっており、残念ながら直接の照合ができなかった。挿入の図版も、南方の自筆ではなく「南方来書」によっているものが多い。なによりも懸念されるのは、乾元社版全集では、たとえば西村真次宛書簡の柳田批判の部分が削除されている(平凡社版全集で復元)といった例があり、同様の処理が南方から柳田にあてた手紙になされていても、それを補正できなかったことである。

 この現存する手紙のうち、紙幅の制約により南方から柳田にあてた六四通を省略し、関連する文章各一編をあわせて収め、注釈を加えて編集したのが『柳田国男南方熊楠往復書簡集』(飯倉照平編、平凡社。のち『南方熊楠選集』別巻としても刊行)である。これらの手紙で扱われているテーマは多岐にわたるが、そのおもだった論議についてふれておく。

 谷川健一は同書の書評である「柳田国男と南方熊楠」のなかで、

「柳田と南方の手紙のやりとりは、柳田が山人についての具体例を南方に教えてほしいと願ったことからはじまった。南方はくわしく答えて柳田に協力を惜しまなかったが、両者の関係はやはり山人に対する意見の衝突で終止符を打った。柳田は敗残した先住民で山に入った者があり、その子孫が今も日本に残っているという仮説を立てて、その証拠を求めているが、南方はそうしたたぐいの者は存在しないと考えている。両者の交信の断絶を契機として、柳田の眼は山人を離れて常民へと方向を転ずる。それは柳田のみならず、日本民俗学にとっても大きな転回点を意味するものであった」

と、重要な指摘をおこなっている。

 一方、これより先、南方は一九〇九年ごろから政府の神社合祀政策に反対する行動をはじめ、翌一〇年には大酔して県の役人に面会を強要して未決監に入れられたりもした(その入監中に柳田の本をはじめて読んだという)。中央の官界に職を奉ずる柳田の出現は、孤軍奮闘に近い泥試合を強いられていた南方にとって、願ってもない援軍であった。柳田としては、その問題で「修羅を焼し給う」南方の精力を、少しでも学問の方にふりむけてほしいというのが真意だったようだ。南方のいささか強引にすぎる加勢の依頼と、そんなやり方ではかえって実質的な勝利がおぼつかなくなるという柳田の忠告とのやりとりは、そのまま二人の人生行路の違いを語っているようにも思える。

 しかし、柳田の熱心な勧誘と協力によって、南方の神社合祀反対の訴えを集約した『南方二書』と題する小冊子が識者に配られることとなった。柳田は、「国論ようやく一変し、真摯なる日本研究これより起こり、雨降り地固まるの結果あらんとす。先生の業徒労ならず候。よって単に俗論防制の消極的行動より転じて、なお将来の民風を作り上ぐる上に御尽力下されたく候」と、さながら自分に言いきかせているような、調子の高い激励を南方に送った。

 このように、南方に対する期待が大きかっただけに出た苦言であろうが、一方で柳田は、『南方二書』や、続けて書き送られてきた「神跡考」について、文章が複雑で常人には消化しにくい、と率直な感想をのべた。しかし、南方はこの批判を承服しなかった。自分は世界の学者を相手にしているのだから、凡衆が読んでくれなくともかまわない、それは「小生の論の不満不完なるにあらず」(一九一一年十月十三日)と開き直った。これに対し、柳田もまた「神社問題などにつき真の愛国者たる態度を示しながら、この点ばかりはあまりコスモポリチックにて絶えて日本の学問を豊富にする考えなく、われわれをも含める日本の社会を一括して凡俗扱いにするとは、さてもさても偏狭の沙汰なり」(一九一一年十月十四日)と激語を発している。

 そのかたわら、柳田は南方の論文「猫一匹の力に憑って大富となりし人の話」を、当時の代表的な総合雑誌である『太陽』の一九一一年正月号へのせてやる世話をし、三年後に「十二支考」の連載が同誌上ではじまるきっかけを作ることになった。

 一九一三(大正二)年三月、柳田は高木敏雄の助けを得て『郷土研究』を創刊した。それ以前からフォークロアについての独立した研究会を作ることについて、柳田と南方のあいだではさまざまな論議がかわされていた。『郷土研究』が予想以上に大きな支持を受けたことに自信を得た柳田は、南方がもっと本格的な論稿を書いてくれるのを期待していた。しかし、南方の対応の仕方には、最初からかなりのずれがあった。柳田は、雑誌編集者としての立場から、寄稿についてことこまかな注文をつけている。南方の方では、それを単なる言いがかりとしか受け取っていなかったらしいふしがある。数年後に南方が知人に訴えているところによれば、「小生が海外のことをやたらに引き出して博聞に誇り、柳田氏の狭聞を公衆の前に露わすごとく解せしにや、すこぶる小生の文を喜ばず、ややもすれば小生の出したものは延引または没書となる」(上松蓊宛書簡、一九一七年三月十五日付)という思いがわだかまっていた。

 やがて二人は、『郷土研究』という雑誌の性格についても激しい意見をたたかわす。益田勝実によれば、

「この南方・柳田の論争での収穫は、柳田が<平民の生活>という研究上の目的意識を持ち出してきたことである。南方が、日本の民俗の学の行く手に、かれのいう<民俗学>や<説話学>を越えた、地方の生活を貫く不文法を考えているのに、柳田は、南方とともに問題にしてきた<奇怪な伝承・習俗>でなく、<平凡な日常の伝承・習俗の全体>をめざしはじめたがゆえに、南方のこれまでのありようのみをみて、南方のいまの言を理解しえない面が生じたものらしい」(『民俗の思想』解説)

という。この結論は、さきの谷川の見方とも通じあっているといえよう。

 もう一つの注目すべき対立は、柳田が、「万町ぶしその他の卑穢(ひわい)なる記事は、小生編輯の責を負う以上はこれを掲げぬつもりに候」とのべ、それに対し南方が、「これドイツなどとかわり、わが邦上下虚偽外飾を尚ぶの弊に候。小学児童を相手にするとかわり、成年以上分別学識あるものの学問のために土俗里話のことを書くに、かようの慎みははなはだ学問の増進に害ありと存じ候」(六鵜保宛書簡、一九一六年)と主張した点にあった。このような見解の相違は、南方が宮武外骨の編集する雑誌で風俗壊乱罪に問われた際の、二人のやりとりにも見てとれる。

 一九一六(大正五)年には、『郷土研究』の誌上で、二人の文章が火花を散らしていた。二月に柳田が「蛙のおらぬ池」を発表すれば、翌月には南方が「鳴かぬ蛙」を書き、六月に柳田が「白米城の話」をのせれば、八月には南方が同題の一文を出す、といった具合であった。そして十二月、竜灯伝説と耳塚の問題をきっかけとする激しい応酬によって、二人の文通はついに破局を迎える。

 一九一七(大正六)年三月、『郷土研究』の休刊は、柳田と南方の文通を事実上断ち切る結果をもたらした。九年後、『南方随筆』が刊行された際の最後の二通ずつの手紙をのぞいて、まとまった往復は数年間だけであったということになる。その最後の手紙には、「小生少しも聞きたがらぬに貴君のことを告げ来たるものあり。そのことはなはだ面白からぬことゆえ、見合わせと致す」(一九二六年六月六日付)と語っている。また柳田も後年、「後にまことに馬鹿げたことで先生からうとんじられ」(「南方熊楠先生」)と回想している。一九一六年の絶信にいたる直接の原因がなんであったかは、よくは分からないが、南方の最後の手紙の末尾に記された「しかるに、中山氏ほど書き立てた内に、小生が下女の閨(ねや)へ這い込んだとか、私生児を孕ませたとかいうことは少しもなし、全くなきことは鬼もまた犯す能わずとさとり申し候」とあるのは、なかなか暗示的である。〔飯倉 照平〕

[ウェブ公開時追記:本書は、『柳田国男 南方熊楠 往復書簡集』(飯倉照平編)として1976年に平凡社より刊行され、その後1994年には「平凡社ライブラリー」として上下二冊本で再刊されました。]

[前の項目へ] <p> [飯倉照平執筆項目一覧へ]