紀州のやきもの




紀州藩主御庭焼 偕楽園焼
1819〜1852年)


紀州藩十代藩主治宝は、紀ノ川左岸に西浜御殿を造営し、邸内に「偕楽園」という庭園を造りました。茶道に造詣が深かった治宝は、サロンでの楽しみを目的に庭園内に窯を設け、京都から永楽保全や楽九代了入、十代旦入ら陶工を呼び、又側近や御用商人のほか治宝自身も制作していました。この窯で作られた焼物を偕楽園焼と呼んでいます。



三楽園焼 嘉永〜安政
(1848〜1860頃)

三楽園焼は、紀伊徳川家の附家老だった新宮城主・水野忠央が江戸屋敷の庭で焼いた御庭焼で、邸宅銘が三楽園であったことからこの名で呼ばれます。三楽園焼は、遺品が少ない上、詳細も不明な部分が多く、一説によると、治宝が亡くなった後、紀州藩江戸赤坂屋敷内にあった窯が、水野氏に下賜され移築したものといわれています。忠央は、治宝が作った偕楽園焼の再興を試み模作しましたが、気品高い偕楽園の域に達することは出来なかったといわれます。



紀州藩御用窯  瑞芝焼(ずいしやき)
1801〜1876年)


瑞芝焼は、岡崎屋阪上重次郎(当時28才)が寛政8年(1796)和歌山市畑屋敷新道町(旧鈴丸町)藻屑川のほとりで開窯しました。当初鈴丸焼と呼ばれ、享和元年(1801)滅法谷に窯を移して滅法谷(めっぽうたに)焼とも呼ばれました。京都の名工青木木米を招き入れ、製陶技術の指導を受けたといわれていますが定かではなく、窯の規模や経営内容、従事した陶工など、詳細の多くは不明です。青磁の完成度が高く、瑞芝の名は治宝が「芝の緑を思わせる青磁」といったことに由来します。



紀州藩窯  南紀男山焼
1827〜1878年)


南紀男山焼は、藩と有能な事業家が手を組んで経営した陶磁器工場という性格を持ったものでした。当初和歌山城下で窯を築き染付の茶道具類を焼いていた崎山利兵衛は、故郷に陶石を発見したことで、文政十年(1827)藩の殖産興業政策に沿った形で、有田郡広川町上中野に大規模な窯を築きました。男山焼は、恵まれた海運を利用して江戸や大坂に運ばれ、不特定多数の消費者を対象に販売されたため、他国のものと判別し難い無銘の染付雑器が大部分でした。男山銘の入った製品は花入や水指、飾り徳利、大型の皿や鉢等日用雑器ではない付加価値の高いものに限られているのが特徴です。



善妙寺焼  宝暦年間(1751〜1762


宝暦年間、和歌山県御坊市島の善妙寺住職だった玄了が、名田町楠井の土を採って焼いたのが善妙寺焼です。玄了は若い頃京都に修行に出た折、陶芸の技術を身につけたといわれ、故郷に帰り暇を見つけては制作したといわれます。




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