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◆崎山(さきやま/サキャン)



※ この地図は、参謀本部陸地測量部発行の1/50,000地形図「西表島西南部」(大正12.5)を使用したものである

所在:竹富町崎山字崎山
地形図:ウビラ石/西表島西部
形態:海岸付近から斜面にかけて家屋が集まる
標高:数m〜数十m
訪問:2010年12月

 

 島の西部にある。
 訪問は徒歩で網取より。網取まで送っていただいた船主の話では、3、4年前まで集落を再建するために4、5人が住んでいたという。主宰者は石垣島の不動産業者で、崎山に住んでいたおじから土地を譲り受けていた。2年ほど居住、国による一筆調査の目前まで漕ぎ着けたが、主宰者が体調を崩したため計画は立ち消えてしまった(集落再建に関わる法律があり、条件を満たすと集落として認可されるという)。当時は屋敷跡や御嶽もきれいに整備されており、住民がスーツ姿で近辺を歩いていたこともあったそう。
 海から少し登った場所の屋敷跡がその拠点と思われ、椅子やシート、柵など名残と思われる遺物も多く残っている。他の屋敷跡はほとんど木々や草に覆われ、敷地内を詳しく調べることはできない。集落跡は斜面に沿って作られており、平地に乏しい。
 なお冬季はイノシシ猟が解禁となり、この一帯を拠点にしている方が海辺に簡素な小屋を掛けている。この方に御嶽の大まかな場所を教えていただいたが、木や草が深く行くことはできないとのこと。
 以下は書籍『崎山節のふるさと』より集落について抜萃したもの。

宝暦5(1755)年創立。波照間島から280人、網取から62人、鹿川から92人、祖納(そない)から10人(計459人)が強制移住、開拓に従事
創立時の役人、崎山氏が自分の姓から命名したことが地名の由来か
当所は現在の集落跡の西部(ヌバン(野浜)とよばれる)に村を作ったが、風や波が強い、交通の便が悪い、舟を引き入れる場所がないといった理由で、現在地に移転
宝暦11年382人、明治6年64人、昭和17年38人、昭和20年25人、昭和23年廃村。直前には3世帯
男は稲作を中心とする農業、女は機織りと畑作り。野菜は白浜や炭坑に、舟を漕いで売りに行った
日用品は、数人で舟を漕いで白浜まで買いに行った

 以下は人家のあった区画の変遷。番号は当方が便宜上付けたもの。( )は家ではない場所。★は戦後まで残った家。

番号 明治末 昭和初め 備考
1 山城 (畑) 井戸(アガネーヌカー)所有
2 (村番所) 前盛 ★ 集落再建の拠点か
3 (役人詰所) 崎山
4 新盛 新盛 ★(廃村時まで居住) 御嶽の神司
5 宮良  
6 新盛  
7 前盛 前盛  
8 本名 本名  
9 石川 石川家の屋敷跡  
10 崎山 崎山家の畑  
11 前盛 崎山 10の崎山家が移転か
12 大嵩 大嵩  
13 新盛 新盛家の屋敷  
14 新盛 新盛  
15 新盛  
16 平良家の屋敷跡 17の平良家。井戸所有
17 平良 のち16に移転
18 兼盛 兼盛 ★(廃村時まで居住)
19 盛山 盛山家の屋敷  
20 蓋盛 蓋盛 ★(廃村時まで居住) 御嶽の神司
21 赤嶺 赤嶺
22 新盛  
23 下底家の屋敷跡 玉代勢 玉代勢家は鹿川からの転入
24 粟盛 粟盛  
25 真地  
26 新盛  

※ このほか真地家が鹿川廃村後に転入(大正3年崎山へ転出)しているが、資料からは居住地は分からない。No.25の真地家か

 


写真1 集落遠景


写真2 集落付近より北東を望む(干潮時)


写真3 屋敷跡の石段

写真4 石積み

写真5 「崎山村」の看板。集落再建の名残か

写真6 壜と瀬戸物

写真7 屋敷跡

写真8 珊瑚の鉢

写真9 何かの跡?

写真10 石垣

写真11 集落内の道

写真12 浜に埋もれた茶碗

 

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