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◆新島(しんじま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「鹿兒島」(昭和21.10)を使用したものである

在:鹿児島市新島町(しんじまちょう)(鹿児島市編入まで赤水(あかみず)字新島)
地形図:桜島北部
/鹿児島
異表記:燃島(もえじま)
アクセント:シンジマ
形態:海岸沿いに家屋が集まる
標高:数m〜約40m
訪問:2011年12

 

 桜島の浦之前(うらのまえ)港より、北東約1.6kmにある島。
 桜島の北東方向にある島だが、桜島町が鹿児島市に編入されるまで属していた大字赤水は桜島の西部。これは「角川」によると、同地の漁民が主に移住したためという。最盛期に人口約250人。
 平成23年現在も少数の世帯が暮らし、浦之前港より行政による連絡船・しんじま丸が週5日、1日2往復している。
 現住世帯はすべて港付近にあり、空家や廃屋も数軒見られる。家屋裏手の斜面には墓地があり、墓に屋根が設けられているのが特徴的。島内にはほか公民館分館(桜峰校区公民館新島分館)・学校校舎(桜峰小学校新島分校)・火山の観測施設(京大防災研究所桜島火山観測所新島観測井)・神社(五社神社)が見られた。
 年配の在住の方の話では、小さい頃の人口は80人くらい。現在の護岸の辺りや、現在の集落の裏手の平坦な荒地にも家があったという。若者が仕事を求めて島を離れていってしまったため人口は漸減、現在は3人。盆や正月などでも、帰ってくる人はないという。かつての主な収入源は漁撈で、タイやカマスなど様々な魚を獲っていた。ほか自給用の畑ではカライモ(=サツマイモ)・ダイコン・タマネギなどを栽培。姓は竹元(たけもと)が多い。なお墓の屋根は火山灰などの塵埃から守るためのもの。
 以下は町郷土誌より学校の沿革と児童数の推移。

 明治33.4  桜洲(おうしゅう)小学校の分教場として創立(※1)
 大正4.4  桜峰(おうほう)小学校に移管(※1)
 昭和16.4  桜峰国民学校新島分校と改称
 昭和22.5  桜峰小学校新島分校と改称
 昭和47.3.31  廃校

年度 昭和31 昭和32 昭和33 昭和34 昭和35 昭和36 昭和37 昭和38 昭和39 昭和40

昭和41

昭和42 昭和43 昭和44 昭和45 昭和46 昭和47
児童数 20 20

22

25 28 28 28 36 不明 不明 32 29 28 22 22 8 0(※2)

※1 桜洲小学校・桜峰小学校はともに当時の西桜島村(のち桜島町)にある
※2 昭和47年度には1人が入学する予定であったが、桜洲小学校校区へ転出。廃校に至った


 なお中学生は昭和36年度まで旧東桜島村(のち鹿児島市)の黒神(くろかみ)中学校に委託。しかし便船の運行時刻では学年ごとの下校時間の違いで不便があり、昭和37年4月からは自主船のスクールボートおよび村営バスで西桜島中学校へ通学するようになった。島に児童生徒が皆無となる昭和46年度いっぱいまで継続。

 資料『シマダス』によると、平成25年6月全住民が島外へ移住。その後出身者などが「ふるさと再生プロジェクトの会」を結成し、有志による活動が開始した。さらに平成30年には市が島の活用を検討するため調査を実施、翌年には意見交換会や現地視察が行われた。令和元年7月、出身者とその夫が転入し、再び有人島となっている。

 


写真1 島遠景

写真2 新島港。白い建物は公民館の分館

写真3 公民館分館

写真4 海岸沿いの道

写真5 空家

写真6 路地

写真7 路地

写真8 路地

写真9 小祠と墓

写真10 廃屋

写真11 小屋。某有名人宿泊

写真12 宅地の門

写真13 路地

写真14 宅地の門

写真15 屋敷跡

写真16 屋根付きの墓

写真17 畑

写真18 消防施設

写真19 学校・神社へ通じる道

写真20 学校。左は校舎、右は火山観測施設

写真21 神社

写真22 護岸と廃屋(左の屋根)

写真23 船の残骸。南部の浜にて

写真24 港より桜島を望む

 

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