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◆槻之河内(つきのかわち)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「都城」(昭和21.10)および地理調査所発行の同地形図「日向青島」(昭和29.1)を使用したものである

所在:日南市北郷町北河内(きたごうちょうきたかわち)
地形図:山王原/都城 坂元/日向青島
形態:川沿いに家屋が散在する?(旧版地形図の建物群) 川沿いの斜面に家屋が集まる(林業集落)
標高:約300m(旧版地形図の建物群) 約280〜320m(林業集落)
訪問:2024年1月

 

 大字北河内の西部、槻之河内川(広渡(ひろと)川支流)沿いにある。
 1960年代の航空写真には、広渡川との合流部から少し上流、右岸の斜面に多数の家屋や学校と思われる大型の建物が見られる。しかし訪問計画時にはこれを見落とし、旧版地形図と1970年代の航空写真を探索の拠り所としていたため、上流部を主とした探索となった。なお上流部は建物は疎らであるものの、川に沿って農地が広がっている。
 旧版地形図の地名表記付近では、往時の痕跡はほとんど確認できなかったが、右岸側では路傍の石仏とその付近で屋敷跡と思われる場所の小屋が見られた。右岸と左岸を結ぶ桜(さくら)橋の付近、川沿いの農地跡?に「広渡ダムレイクサイド公園」が整備されている。
  学校跡を探すべく下流側にも足を延ばしたところ、「槻之河内 学校/集落 想いの地 入口」とある標柱を見つけた(写真8)。しかし先述のとおり林業集落の存在を把握していなかったため、学校跡をはじめこれといった痕跡は確認できず。

 昭和40年刊行の町史によると、60戸(時期不明)でほぼ全戸が営林署の作業に従事していたとのこと。
 当地にあった板谷小学校槻之河内分校は、昭和19年北郷小学校槻之河内分教場として発足。校舎は業員宿舎を改造したものであった。営林署事業所創設の昭和8年当時は、郷ノ原貯木場に合宿所を設置し、児童は軌道を利用し北郷小学校に通学をしていた。終戦後は板谷小学校に通学することになったが、昭和21年事務所寮を開放して事務職員が教育に当たり、昭和23年に板谷小学校槻之河内分校が正式に認可された。昭和29年9月の台風被害により、昭和30年3月現在地に移転。児童数は、昭和34年70人、同35年72人、同36年77人、同37年68人、同38年61人。
 また昭和38年10月、公民館を改造し槻之河内保育所が開設(季節保育所)。
 神社として中尾崎神社があった。槻之河内中尾崎に鎮座、祭神は大山祇大神。勧請年月不詳。俗称「山の神」と呼ばれていたものを、明治2年中尾神社と改称した。

 また平成20年刊行の町誌によると、昭和25年頃60世帯180人。昭和47年に集団移転が行われ、大半の住民が離村したとのこと。
 当時29世帯で、ほとんどが飫肥営林署の仕事に従事。昭和43年に分校が閉校となってからは、児童は約10q離れた坂元小学校に通学。朝と夕の通学バスも、赤字路線のため廃止されようとしていた。山間のため子供の教育や生活の不便さがあり、住民は町の中心部への移転を望んでいたが、条件が整わず実現はできなかった。そこで町は住宅の建設を計画。昭和47年4月、鵜之木に町営住宅が完成。営林署槻之河内事業所の規模縮小も重なり、まず12世帯が移転。続いて残りの世帯も同年5月に移転。槻之河内には営林署職員4世帯を残すのみとなった。昭和48年事業所廃止。
 山間部の住民に対し、自治体が便宜を図る事例は県内でも初めてで、集団移転と通勤林業は注目を集めたという。

 


(写真1 槻之河内橋)

写真2 レイクサイド公園(往時は農地か)

写真3 建物跡?

写真4 農地跡と道

写真5 農地跡の石垣

写真6 石仏

写真7 小屋

写真8 学校・集落跡入口の標柱と道の分岐

写真9 林業集落跡

写真10 遺構

 

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