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◆三ノ岳(さんのたけ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「犬飼」(昭和23.11)を使用したものである

所在:豊後大野市犬飼町黒松(いぬかいまちくろまつ)
地形図:野津原/犬飼
異表記:三嵩(近世の表記)・三岳・三の岳
形態:山中に家屋が散在する
標高:約440〜480m
訪問:2023年11月

 

 大字黒松の西部、三ノ岳(さんのたけ)の東斜面にある。
 訪問は高津原の山田地区方面より。三ノ岳付近には最近まで遊具やバンガロー・天文台等の施設を備えた公園があったこともあり、道路は狭隘で長距離ながら比較的整っている

 現地では、管理された地蔵堂(写真11)のほか複数の屋敷跡や倒潰家屋が見られた。南尾根には墓地があり、大塚姓を確認。
 なお公園跡付近には「水ノ元」と呼ばれる場所があり、弘法大師にまつわる湧水の伝説がある。また道路沿いには「三岳道路開通記念碑」があり(写真15)、「元三ノ岳在住者」として大塚氏・樋口氏など19名の名が記されている。さらに稜線上には「三ノ岳尺間嶽」が祀られている(写真16)。旧版地形図では墓地の記号が記されているが、それらしいものは見られない。
 以下は「水の元の伝説」の説明板より。


 大同元年(八〇五年)この地に弘法大師様が訪れました。なにしろ高い所(標高約五四八・五米)に登ってこられましたので喉が渇いて仕方がない なんとかして水を呑みたいと思っていたところふと村人を見つけました。大師様が「喉が渇いた水は無かろうか…」と所望しました。
 そのとき村人は「ハイすぐお持ちします」といってすぐさま下の谷まで駆けおりて竹の筒に一杯の水を汲んでフウフウ言いながら汗ビッショリになって駆け上り大師様にその水をさし上げました。
 大師様は、水をいかにもおいしそうにゴクリゴクリと一気に呑み干されて、その村人に「この地に水がないとは不便じゃのう…わしがお礼に水を出してあげよう」と、持っておられた杖で、地面を二−三回叩くと、あれふしぎや、この高い所に清水がコンコンと湧き出てきました。
 その後、この地に水の絶えることがありません。地方の人々は干ばつが続くと、雨乞いのために、ここに水貰いに来るようになったと言うことであります。
 これは、土地の古老に語り伝えられている伝説を申しのべました。何か教えられるものがあります。


 文献『三の岳の記録』によると、
昭和期に21戸で人口120〜130人。東班で大塚・大塚・三嶋・三嶋・大木・樋口・樋口・中摩・羽田野・池部の各家、西班で大塚・大塚・大塚・大塚・大塚・樋口・樋口・大塚・大塚・大塚・大塚の各家であった。昭和47年行政区としての「三の岳」は廃止されたが、数人の居住者と通いでの滞在者は残っていた。
 集落は主に畑作地帯であった。畑は人家の近くにあり、野菜や麦類など作物の収穫量は良好であった。特にタマネギは高品質で、町内でも有名な産地であった。柑橘類もよく育った。しかし傾斜地であることや土壌が固かったため、作業は楽ではなかった。
 山岳地帯ではあるが谷々には水田があり、特に集落の前方や東方にあった。しかし収穫は少なく、また距離が遠かったり農道が悪かったり、枚数が多いことなどもあって重労働であった。転出者が増えると猪が田を荒らすようになり、昭和40年頃にはほとんどが山野となった。
 副業として炭焼きも盛んに行われた。のち椎茸生産へと移り変わったが、これも次第に衰退。
 ほか養蚕も行われ、大正末期には21戸中18戸が従事。始まりは明治末期頃か。桑もよく育ち良質の繭が生産されたが、戦後次第に廃れていった。葉タバコも盛んに生産され、昭和35年頃までは多くの家庭で従事。
 牝の親牛がほとんどの家庭で飼育され、農耕や物資運搬などの労役に使われていた。また育成牛のいる家では、牝の子牛は大きな収入源となった。地理的な条件もあってか蹄の丈夫さ・肉の締まりの良さ等で町内でも優良な産地であった。
 
飲料水の確保には苦労があった。1回の水汲みで、近い家で10分、遠い家で30分を要した。また少ない日で2、3回、多い日で5、6回汲まなければならなかった。昭和初期に屋根水を利用して6戸が貯水タンクを作った。その他貯水槽を作って湧水や井戸水を揚水ポンプで溜め、水道管を引いて蛇口を使った水道に替えた人たちもあった。
 なお大正10年、10戸を残し16棟が全焼している。
 
地蔵堂は、元は高立山金倉(きんそう)寺で、現在地とは別の場所にあった。愛宕地蔵尊を祀る。

 また資料『長谷の里生活誌』によると、地蔵堂は住民の信仰・集会・行事の中心となっていたとのこと。また尺間様は三ノ岳以外にも信者が多く、参る人が多かったという。尺間様と並んで大日様も祀られている。
 水ノ元は弘法大師により湧き出て以来涸れることはなく、長谷村の人々にも仏の水として崇められていたという。夏の渇水の時には村人が薪を持ってこの地に集まり、雨乞いの祈願祭をしていたが、これも昭和9年以降は途絶えている。

 町誌によると、昭和30年19戸。また大字黒松の小字に、「三ノ嶽(さんのたけ)」が見られる。
 
また「角川」によると、当地は近世に存在した大野郡三嵩村。明治8年黒松村となる。

 


写真1 屋敷跡

写真2 道と屋敷跡の石垣

写真3 屋敷跡の小祠。「愛宕将軍地藏」とある

写真4 廃屋

写真5 倒潰家屋

写真6 水槽

写真7 半壊の小屋

写真8 墓地

写真9 廃屋

写真10 宅地の小祠

写真11 地蔵堂 

写真12 写真11境内の石造物群
≪水ノ元≫

写真13 水ノ元にて。湧水は木の根元。右には大師像が祀られる

写真14 分岐の道標

写真15 碑

写真16 「三ノ岳尺間嶽」の堂宇

 

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