◆炎(ほのお)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「犬飼」(昭和23.11)を使用したものである
所在:豊後大野市犬飼町栗ヶ畑(いぬかいまちくりがはた)・同山内(やまうち)
地形図:田中/犬飼
形態:山中に家屋が集まる
標高:約260〜300m
訪問:2023年11月
大字栗ヶ畑の西部、および山内の北部に亘る集落。
現地では、栗ヶ畑・山内いずれでも屋敷跡と墓地を確認した。山内側の墓地は佐藤氏。山内では小祠や石造物が置かれた場所があり、新しい供物があるなど時おりの訪問が窺える。
なお訪問に際し尾平方面から林道栗ヶ畑・炎線を利用したが、下方(山内方面)から通じる道より往来している形跡があり、所用の際はこちらが利用されているよう。この道は町誌に町道として記載のある「山内炎線」か。
資料『長谷の里生活誌』よりかつての住民への聞き取りによると、近年の戸数は5、6戸。耕地はすべて畑で、陸稲・大豆・小麦・煙草・みかん等を作り、土質が良いため非常に質のよいものが生産されたという。ほか養蚕も行い、冬は製炭にも従事。
全戸が佐藤氏。系図によると、当家は慶長の頃石垣原(いしがきばる)の合戦に大友軍の一員として参加したが、これに敗れ一族とともに当地に逃れ百姓になったという。編者は、各地に散らばった大友軍の残党と連絡を取るため、有事の際はのろしを上げて合図をする密約があり、そのためこの地が炎という地名になったという可能性を指摘している。
交通の便が悪いことや電灯がないこと、水利が悪いこと、そして子供の教育の問題などもあり、まず昭和33年に1戸(話者)が栗ヶ畑地内へ転出。のち経費をかけ電灯が導入されたが、間もなく全戸が離村。1戸は栗ヶ畑、2戸は山内、1戸は県外に転出。
なお上の3戸は大字栗ヶ畑に属し、下の2戸は大字山内に属している。
また町誌によると、当地には出雲社があったが、明治10年3月に山内の16社が合祀され山内神社が創立したとのこと。また大字栗ヶ畑の小字に「炎(ほのお)」、山内の小字に「炎(ほぬう)」が見られるが、後者のルビは誤植だろうか。
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