◆大築島(おおつくしま)
所在:八代市植柳下町(うやなぎしもまち)
八代港より、南西におよそ6.7㎞にある島。また松島町【現・上天草市】牟田漁港からは東北東におよそ5.4㎞。大築島鉱山(石灰岩を採掘)に伴う集落が島の北東部に存在した。 昭和23年・同37年・同42年の航空写真では海沿いから谷にかけて複数の建物が見られるが、同48年のものではこれらはほとんどなくなっており、白い裸地部分も拡大している。また桟橋付近にこれまでなかった建造物が現れているのが分かる。また昭和50年には谷に唯一残っていた建物も、同58年には見られなくなっている。 集落があった一帯は深く草藪になっており、探索は困難。まず谷沿いを東西の3分の1ほど?登ったが、道や遺構・遺物をまったく見つけることができなかった。谷筋は非常に緩やかであるため、現在地や進行方向が判断しづらい。 資料『シマダス』によると、最盛期(昭和30年頃)には鉱山従業員とその家族など50世帯250人ほどが暮らしたという。現在は、採掘によって島の東部から中央部が海面近くまで削り取られている。 資料『七十年史 本編』および『八十年史』(いずれも日本セメント株式会社編)によると、昭和25年12月に重油エンジンの発電機により住宅に電灯がついたとのこと。また昭和24年2月に医務室が設立し、工場医週1回来診、看護師1名となっている。ほか「社宅利用状況一覧」の表によると、昭和28年現在、社宅は20棟28戸、従業員数70人で、うち社宅居住者数は48人となっている。昭和30年3月無線電話を設置し、伝書鳩による工場との通信連絡を廃止。昭和35年3月公衆電話が開通し、無線電話廃止。昭和36年5月に従業員の八代市内への移住が完了し、通勤船が就航。同年、鉱山社宅は廃却された。 また「広報くまもと」(昭和33年10月号)によると、学校は島の中腹にあり、掲載されている写真より入り江を挟んで北の岬(写真5)を望む場所に立地していたことが分かる。当時、児童数43、生徒数5、教員3。生活用水は天水に頼っていたという。
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![]() 写真1 島遠景(北側より撮影) |
![]() 写真2 後年の桟橋付近 |
![]() 写真3 広い平坦地 |
![]() 写真4 島南西部の山 |
![]() 写真5 島北部の岬(周囲の海面が埋め立てられている) |
![]() 写真6 入り江沿いの遺構 |
![]() 写真7 集落のあった谷を望む |
![]() 写真8 墓 |
![]() 写真9 墓 |
![]() 写真10 尾根より谷を俯瞰 |
![]() 写真11 同 |
![]() 写真12 神社の記号付近。境内は木の下辺りか |