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◆大築島(おおつくしま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「日奈久」(昭和24.7)を使用したものである

所在:八代市植柳下町(うやなぎしもまち)
地形図:姫浦/教良木 日奈久/日奈久
形態:海沿いから谷沿いにかけて家屋が集まる
標高:数m~約30m?
訪問:2024年5月

 

 八代港より、南西におよそ6.7㎞にある島。また松島町【現・上天草市】牟田漁港からは東北東におよそ5.4㎞。大築島鉱山(石灰岩を採掘)に伴う集落が島の北東部に存在した。
 なお当地が所在する植柳地区は現在は海から離れているが、近世以降八代沿岸で干拓が行われる前は海に面する地域であった。

 昭和23年・同37年・同42年の航空写真では海沿いから谷にかけて複数の建物が見られるが、同48年のものではこれらはほとんどなくなっており、白い裸地部分も拡大している。また桟橋付近にこれまでなかった建造物が現れているのが分かる。また昭和50年には谷に唯一残っていた建物も、同58年には見られなくなっている。

 集落があった一帯は深く草藪になっており、探索は困難。まず谷沿いを東西の3分の1ほど?登ったが、道や遺構・遺物をまったく見つけることができなかった。谷筋は非常に緩やかであるため、現在地や進行方向が判断しづらい。
 続いて北の尾根筋をたどり谷に下降することにしたが、山上も笹や灌木などで非常に荒れている。なんとか北側のピークに到達したものの、荒廃のため下降することもできず、集落跡を俯瞰するのみにとどまった。
 なお谷筋から尾根に移動する際に、偶然にも墓を発見することができた。入り江にある建造物の遺構(写真6)とともに、数少ない集落の痕跡といえる。
 現在、八代港で浚渫された土砂による埋め立てが島の周囲で進行中。

 資料『シマダス』によると、最盛期(昭和30年頃)には鉱山従業員とその家族など50世帯250人ほどが暮らしたという。現在は、採掘によって島の東部から中央部が海面近くまで削り取られている。
 明治22年より日本セメント(現・太平洋セメント)八代工場の原料山として操業を開始。天草から移り住んだ親方衆が労働者を雇って個別に丁場を設け、石灰石を採掘。大正末期より八代港へ輸送された。昭和4年には島の6箇所に桟橋が建設された。
 昭和17年、会社は親方と労働者を直接雇用の従業員としている。
 昭和19年、代陽国民学校の大築島分校、同22年には第三中学校の大築島分校が開校。前者は昭和22年代陽小学校大築島分校、同30年八代小学校大築島分校となっている。
 昭和36年、発破による危険や教育の問題から、従業員とその家族が八代に移住して無人化。学校も廃校となり、以後従業員は専用チャーター船で島へ通勤した。
 昭和55年大築島鉱山は廃止となるが、同年より八代市の飯田鉱業が採掘開始。これは平成8年まで採掘が続けられた。
 なお明治10年、八代町(当時)と天草の阿村(現在の松島地区)との間で島の所有が争われたという。

 資料『七十年史 本編』および『八十年史』(いずれも日本セメント株式会社編)によると、昭和25年12月に重油エンジンの発電機により住宅に電灯がついたとのこと。また昭和24年2月に医務室が設立し、工場医週1回来診、看護師1名となっている。ほか「社宅利用状況一覧」の表によると、昭和28年現在、社宅は20棟28戸、従業員数70人で、うち社宅居住者数は48人となっている。昭和30年3月無線電話を設置し、伝書鳩による工場との通信連絡を廃止。昭和35年3月公衆電話が開通し、無線電話廃止。昭和36年5月に従業員の八代市内への移住が完了し、通勤船が就航。同年、鉱山社宅は廃却された。

 また「広報くまもと」(昭和33年10月号)によると、学校は島の中腹にあり、掲載されている写真より入り江を挟んで北の岬(写真5)を望む場所に立地していたことが分かる。当時、児童数43、生徒数5、教員3。生活用水は天水に頼っていたという。

 


写真1 島遠景(北側より撮影)

写真2 後年の桟橋付近

写真3 広い平坦地

写真4 島南西部の山

写真5 島北部の岬(周囲の海面が埋め立てられている)

写真6 入り江沿いの遺構

写真7 集落のあった谷を望む

写真8 墓

写真9 墓

写真10 尾根より谷を俯瞰

写真11 同

写真12 神社の記号付近。境内は木の下辺りか

 

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