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◆上宮山(じょうぐうやま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「日奈久」(昭和24.7)を使用したものである

所在:八代市妙見町(みょうけんまち)
地形図:坂本/日奈久
形態:山中に家屋が集まる
標高:約410m
訪問:2024年5月

 

 妙見町の南東部にある。かつて八代神社(旧妙見宮)が鎮座していた地。最初に祀られた当地の妙見宮を上宮(じょうぐう)と呼ぶのに対し、次のものを中宮(ちゅうぐう)、現在のものを下宮(げぐう)と呼ぶ。
 地形図には旧版・新版ともに神社の記号が記され、これは上宮跡を示すもの。

 現地にある「妙見上宮跡」の標柱の解説文によると、上宮は延暦14(759)年に桓武天皇の勅願によりこの地に創建されたとのこと。永暦元(1160)年に中宮が築かれるまで、妙見信仰が守り伝えられた。一帯では平安時代のものと推測される瓦が出土し、社殿等の建造物に使われていたとみられている。また北側山中には清水および江戸時代の墓碑が見られるという。

 市史によると、平安中期にはこの地に1社3坊(神主家と神宮寺家)があり、その家族と主従・下人を合わせると少なくとも5、60人を擁する社寺域を形成していたと推定できるという。
 上宮は神宮寺が天台宗であり、また平安中期頃は真言宗も含めて3坊に発展。
 「妙見上宮四家配置推定図」では、北西の隅に「社殿」があり、その東隣が「神宮寺金堂」、その南が「院主」、その南が「一乗坊」となっている。3坊の前は社殿前の広場で、ここで祭事や法要などが行われていたか。山上であるため建物は小さく茅葺きであったようだが、神宮寺だけは平安中期になって瓦葺き(後述)にしたとみられる。
 上宮への物資の輸送は、旧参道・猫谷路・袈裟堂路によるものが考えられている。旧参道は現在の中宮から上宮へ向かうもの、猫谷路は猫谷川より八峰山を経て上宮に至るもの、袈裟堂路は袈裟堂川より上宮へ至るもの。このうち最も重要なのは旧参道で、猫谷路がこれに次ぐ。
 上宮跡の北に湧水と庵の跡がある。ここは貞享元(1684)年10月、細川綱利が妙見宮へ社山の内として寄付された「上宮山(じょうぐうやま)」で、その広さは「たて八十間、よこ五十間、一町三段三畝歩」となっている(およそ南北145m、東西90m)。江戸時代は洪福庵(こうふくあん)が置かれた。また琳聖太子の最初の住居とも。
 現況では、上宮敷地の中央に数本の雑木が茂った壇があり、この壇の後方左右に小さな壇がある。そして後方には石祠がある。敷地の東側では布目瓦が多量に出土し、調査の結果平安時代中期まで遡り得ることが明らかにされ、この辺りが神宮寺の金堂跡と推測される。
 庵跡は切石の壇が残り、壇と崖の間には泉水や石組の跡が残っていて、自然の地形を利用した小さい庭園もあったよう。湧水は今も少量の水が流れ落ちている。
 「妙見上宮地図」によると、上宮跡は2585番地、庵跡が2584番地で、いずれも民有地。周囲の山林は2583番地で、国有地。

 洪福庵については、『八代郡史』の「名称及ひ古蹟」の章に「洪福菴明乘坊趾」とあり、「宮地村上宮山にあり。元と此菴は古麓城廓内にありしを、元祿の比上宮に移し明乘坊をして菴主たらしめしが…」との由。


 当地の下方には林道(上宮線)が通じているが、起点にゲートが設けられているため子安観音経由で地形図上の破線部より徒歩で訪問(先述の「旧道」)。林道と交わるまでは道はやや荒れているが、林道を過ぎると歩きやすい山道となり、また路傍には丁石を兼ねた石仏が見られるようになる。
 現地では、整然とした上宮跡とやや離れた庵跡、そして解説文にある江戸時代の墓碑も確認した。庵跡には瓦や陶片、甕といった遺物が見られ、瓦は古いものであるもののその他は当時のものであるかは不明。
 なお庵跡は上の地図画像では「上」の字の位置に当たる。

 


写真1 林道からの登り口

写真2 参道と丁石の石仏(左手前)


写真3 参道より球磨(くま)川・八代市街を望む


写真4 上宮跡

写真5 
写真4にて。石造物群

写真6 同。小祠

写真7 道(手前)と庵跡

写真8 写真7にて。瓦

写真9 同。古木

写真10 同。湧水

写真11 庵跡付近の甕(往時のものであるかは不明)

写真12 墓

 

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