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◆小川内(こごうち)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「人吉」(昭和27.5)を使用したものである

所在:相良村四浦西(ようらにし)
地形図:肥後田代/人吉 頭地/頭地
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約500〜550m?
訪問:2024年5月

 

 大字四浦西の中部、山口谷(川辺(かわべ)川支流)の上流にある。
 家屋は左岸の比較的谷に近い場所と、右岸の斜面に分布
。1970年代の航空写真では、左岸に3戸、右岸に2戸ほどの人家が見られる。
 現地では、左岸で廃屋と屋敷跡、ほか墓地(杉山・小川・原田の各氏)や茶畑跡が見られ、右岸でも建物跡(屋敷跡?)と廃屋が見られた。また集落から少し上流には、山の神の祠がある(写真10)。
 さらに上流には鉱山もあったが、これは未訪問。

 村誌によると、大正14年生まれの女性が最後の住民で、平成5年に離村したとのこと。江戸時代から定住した家々のほか、銅山開発や植林事業で外の人の出入りがあり、ある期間定住する人もいた。
 家の裏手には山の神が祀られていた。また共同墓地の上手には「カイセイさん」といわれる学問の神が祀ってあり、今は礎石のみが残っている。昔は刀・鏡が供えられていたが、刀身は戦時中没収され、鍔と鏡は別々の人により管理されている。
 小川内銅山は、明治末期より始まり諸氏により開発されたが、昭和14年休山。昭和18年に昭和工業が鉱業権を買い取ったが、終戦直前の輸送難のため休山。昭和24年東方鉱業、同27年ラサ鉱業、同30年東洋鉱山と鉱業権の譲渡が続き操業に至ったが、銅価の下落のため昭和32年休山。しばらくは管理要員数名を残し保坑に当たったが、昭和50年3月鉱業権を放棄。
 王子製紙による植林が盛んになったのは昭和30年代。最初は茶畑に家を建てて労働者が単身で働いたが、のちに家族連れで働くようになり、最盛期には8家族が住んだ。
 王子製紙の植林が始まるまでは、山を開墾して植林をする山仕事や竹林の開墾を行い、開墾したた田で米を作った。また開墾の合間に焼畑を行い、粟や稗を作った。
 昭和30年頃から、自家発電により電気が使えるようになった。昭和40年頃からは、九州電力により配電されるようになった。
 昭和43年頃、山の伐採が進み植林の仕事がなくなった。昭和50年代からは、徐々に離村する家が現れるようになる。
 刊行(平成8年)の時点では、手前3軒の家の前には茶畑や田があり、山口集落の人が耕作していた(現在は行われていない。写真2・3の手前がその跡)。

 


写真1 橋

写真2 廃屋

写真3 屋敷跡(奥の平坦地)

写真4 屋敷跡

写真5 墓地

写真6 送水管と水槽

写真7 茶畑跡

写真8 建物跡

写真9 廃屋。おそらく最後の住民の住居

写真10 祠

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