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◆市房(いちふさ)ダム水没集落群(仮称)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「村所」(昭和29.9)および同地形図「椎葉村」(昭和29.9)を使用したものである

所在:水上村江代(えしろ)および湯山(ゆやま)
地形図:市房山/村所
形態:川沿いに家屋や施設が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約230m〜?(水面は約270m)
訪問:2024年5月

 

 球磨川と湯山川との合流部付近。水没前は水上村の中心部であった。大字としては、江代の南部・湯山の南西部に当たる。ここでは田迎(たむかえ)より下流、旧版地形図に記された新橋・下江代(しもえしろ)・松ヶ野(まつがの)・江代ついて触れる。

 昭和45年刊行の村史によると、ダムは昭和28年着工。昭和31年12月、建設省と村はダム建設に伴う補償についての協定を締結。昭和32年6月起工式。昭和35年竣工。水没地には、水上村役場(新橋)・江代小学校・水上中学校(新橋)・公民館・村立診療所・江代巡査駐在所・消防団格納庫・農業協同組合・九州電力新橋発電所といった施設があった。

 江代小学校は、明治12年12月開校。昭和33年3月31日閉校。
 湯山中学校は、昭和22年4月開校。本校を置かず、岩野小学校に岩野分校、湯山小学校に湯山分校、古屋敷小学校に古屋敷分校を併設。昭和27年10月、各分校を廃止し新橋の校舎に集約。11月1日よりスクールバス運行開始。11月3日中学校落成式。昭和34年1月20日、校舎を湯前町字塩利に建築することに対し湯前町議会の同意を得る(※)
 村役場は、昭和35年8月、発電所事務所跡に移転した。

※ 村の広報誌によると、昭和34年度新校舎落成。なお令和5年3月に閉校したが、湯山小学校・岩野小学校を統合し、同年4月同地にて義務教育学校の村立水上学園が開校している

 また平成刊行の村誌によると、村役場は大正10年に岩野より新橋に移転したとのこと。
 字前田(まえだ)に祀られる八幡神社は、もと村社格。同じく前田にあった阿弥陀堂が、この境内に移転している。ほか下江代には山神社がある。字馬場(ばば)には白水神社、戸屋野(とやの)には観音堂、松ヶ野には薬師堂があった。
 江代巡査駐在所はもと字前田、江代小学校の前に置かれていた。大正10年湯山字下の越に移転したが、引き続き「江代」の名称が用いられた。しかしこれも市房ダムの水没地となり、昭和34年湯山地内に移転。湯山駐在所として発足した。
 診療所は字小淵にあり、昭和26年県営であったものを買収し、村営としたもの。のち個人経営となった。
 編者所持の水上局郵便全図(昭和27年)が掲載されており、これによると配達先の件数は地形図上の「新橋」に当たる一帯で新橋7(合流部西側)・小淵(こぶち)14(合流部西側)、川端(川畑)(かわばた)4(合流部南側)。「下江代」に当たる一帯では、下流より原田8・下江代8・佐土元1。「松ヶ野」は松ヶ野15。「江代」に当たる一帯では、下流より前田20・馬場10・戸屋野61となっている。


 訪問時は新橋・下江代・松ヶ野のみを訪問対象としていたため、それぞれ水没地を望んだのみ。松ヶ野橋付近にある石仏は、松ヶ野から移されたものか。また先述の八幡神社は前を通過したのみで、撮影せず。
 ダムサイトには30周年記念および50周年記念の碑があり、後者には水没移転者の名が刻まれた碑も添えられている。これによると、下江代区42名、前田区32名、戸屋野区76名、下馬場区11名。
 なお最近の地形図で戸屋野と記されている場所では、現住の家屋あり。

 


写真1 ダム堰堤

写真2 碑

写真3 新橋方面を望む

写真4 下江代方面を望む

写真5 松ヶ野方面を望む

写真6 石仏。松ヶ野橋付近の県道にて

 

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