◆牛蒡草(ごぼうくさ)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「宮原」(昭和22.6)を使用したものである
所在:南小国町赤馬場(あかばば)
地形図:満願寺/宮原
異表記:牛旁草(林道標柱)・御防草(後述の標柱)
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約650m
訪問:2014年8月
大字赤馬場の南部、馬場川支流沿いにある。
訪問は林道牛旁草線(※1)を利用。1kmほど進むと道の荒廃が目立ち、途中からは徒歩になる。地図上では馬場川本流沿いの黄川集落からも道が通じているが、車輛での通行は困難と思われる。
現地では左岸を中心に段々になった農地跡を確認。確認できた1箇所の屋敷跡や社の跡(写真5)も左岸側。社跡の灯籠の基部には、寄進者の「北■」氏2名(■は剥離し判読できず。ただし後述の碑文より北里氏と思われる)の名が刻まれている。また屋敷跡の裏、小高い小さな丘の上にはかつての住民が建てたと思われる「墓所乳母塚」とある木柱(平成2年設置。写真7)があり、その由来も記されている。以下はその文(「脱」とあるのは、材の腐朽により読めない部分。■は判読できないもの)。
墓所乳母塚
所在地 熊本縣阿蘇郡南小国町大字赤馬場御防草(※2)四七五〇番地
同所由来
天文一九年八月「現世より四四〇年前西暦一.五五〇年」豊後の国城主大友義鎭(脱)菊池義武に於て爭乱ありし時菊池を味方として戦に臨(脱)先の一身なることとて其の身柄は乳母に連れ(脱)時期の来るのを待ち山を開き作地を求め武家(脱)配権を細川藩より授けられしは「宝暦の頃と推定」身に余る(脱)しかして光陰は矢の如く時代の流れも早く西暦一.八三〇年今から(脱)北里家伝来の墓地であり家宝でもある.亦其の当時の支配権図面も現在保存中な■五五種の我家の守本尊觀世音菩薩も保存しあるを確認せり。屋号は外屋敷である 家紋は笹竜胆である 茲に愼んで標木を作成して後世の爲ならむ哉 之建立にて記憶とする
ほか熊本市へ移住したこと、同家が清和源氏の流れを受けていることが記されている。
地元の方の話では、分かるもので2軒。居住は昭和50年頃までではないかとのこと。炭焼きや山仕事等が生業であったよう。
※1 林道の表記は「牛旁草」
※2 標柱での表記は「御防草」
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