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◆箕島(みしま)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「大村」(昭和21.11)を使用したものである

在:大村市箕島町(みしままち)
(かつては大村市箕島郷(みしまごう)
地形図:大村
/大村 武留路山/大村
形態:海沿いに家屋が集まる
標高:数m
訪問:2015年6

 

 大村湾の南東にある島。大村市の中心部より西に4kmほど。現在は全域が長崎空港の用地となり、全長970mの箕島大橋(写真3)により連絡されている。現在の土地の多くは埋立地で、滑走路の大部分やターミナルビルがある場所はもと海上、もしくは属島の小規模な陸地であった(ガロー島・ソーケー島・アカ島)。空港保安防災教育訓練センターの西側から南西側にかけて長浜(ながはま)集落、南に深網代(ふかあじろ)集落、電波塔(無線標識施設兼距離測定装置)の南東の浜の付近に小泊(おどまり)集落があった(※1)
 以下は長崎空港発行のパンフレットより、空港の概要を要約したもの。

 前身は、大正12年12月に市内今津町(いまづまち)に開設された大村海軍航空隊(現在の海上自衛隊航空基地)。昭和30年大村空港となる。昭和43年頃から新空港建設の話が持ち上がり、同44年には知事が県議会において箕島が有力であると発表。当時島内には13戸66人が農業を主体に生活していたが、市内への移住に同意。昭和46年12月より用地の造成および架橋の工事が開始し、同47年1月22日に起工式挙行。用地は昭和49年9月、橋梁は11月に完成した。昭和50年5月1日に長崎空港として供用開始。世界初の海上空港で、周囲に障害物・灯火がないことや、気象による影響が少ないこと、付近住民への騒音が抑止できることなど、利点が多い。

 以下は『大村史話』より当地に関する記述の抜萃・要約。
 当地に最初に来島したのは三浦村日泊郷(※2)の山口家。1600年代には移住者も増加していった。元禄時代には牛馬の放牧が導入され、この頃開墾も進み、ハゼノキ・蜜柑・大根などが栽培されるようになる。明治時代の主な農産物は麦・甘藷・大根。特に大根は大正初期に新種を導入してからは佐世保で評判となり、大正中期に漬け大根の大量生産が考案されてからは、「箕島大根」として九州をはじめ広く知れ渡るようになる。ところが食生活の変化で需要も下火となり、市や県は蜜柑の栽培を推奨した。
 漁業では、春はサヨリ、夏はアジ・サバ、秋は手繰り網漁、冬はナマコといった漁撈を行っていた。
 神社は市杵島(いちきしま)神社。弁財天も同時に祀り、いずれも海の守り神。元禄時代に勧請されたが、空港建設のため昭和47年10月24日遷座祭を行い、大村の富松神社に合祀された。

 なお島内には大村小学校箕島分校があったが、離村時の昭和47年に閉校している。また離村後の島内には法界萬霊碑が建てられ、毎年の開港記念日に慰霊祭が実施されているとのこと(いずれもHEYANEKO氏調べ)。

※1 長浜・深網代については2015年8月追記。HEYANEKO氏著の「廃村と過疎の風景8」の巻末読み物において、昭和42年発行の1/50,000地形図「大村」が引用されており、北島に長浜、南島に深網代が記されている。当初は「角川」で地名のみを確認していたが、位置を特定しかねていた
※2 現在の大村市日泊町(ひどまるまち)と思われる

 


写真1 島遠景
※ 撮影時は露出計故障(写真2も同様)


写真2 島内風景

写真3 箕島大橋
※ 携帯電話による撮影

 

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