◆犬鳴(いぬなき)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「直方」(昭和21.10)を使用したものである
所在:宮若市犬鳴 地形図:脇田/直方
形態:川沿いに家屋が集まる 離村の背景:ダム建設
標高:約180〜300m(水面は約210m)
訪問:2014年11月
町の西部、犬鳴川の上流部にある。現在は犬鳴ダムの湛水により大部分が水没し、水没を免れた地を含め無住となっている。
町誌や「角川」によると、当地区は江戸期に生じた犬鳴谷村(鞍手郡)。明治22年、吉川村の大字犬鳴となる。江戸時代初期脇田村の枝村であったが、豊富な森林を利用し木炭生産が盛んになると、福岡藩は元禄年間庄屋を配し独立した犬鳴谷村を形成するようになった。炭焼き・紙漉き・林業が主体で、江戸時代初期は犬鳴焼という焼き物も作られていた。幕末にはたたら製法により鉄を精錬したり、福岡城の別館を建てるなど、藩の主要な場所となった。明治9年31戸141人、同22年24戸118人。
犬鳴ダム建設に伴い離村。集団移転先は町内脇田(わきた)の八反田および天入寺。昭和59年頃から宅地造成が行われ、28戸中23戸が移転、5戸は町外へ転出した。
以下はダム建設の主な流れ。
昭和39.9 |
北九州市水道局より、町に対しダム建設の申し出がなされる |
昭和43.9 |
県議会にて調査費の計上を決議 |
昭和47.4 |
建設を正式決定 |
昭和55.12 |
移転先決定。同58年9月には具体的な位置が確定し、造成工事開始 |
昭和59.12 |
水没地の補償基準提示 |
昭和60.3 |
妥結 |
平成3.11 |
堤体竣工 |
平成7.3 |
ダム事業完了 |
また以下は学校の沿革と児童数の推移。
(沿革)
明治15 |
民家を借り受け、犬鳴小学校開校 |
|
犬鳴小学校簡易科となる |
明治19(※1) |
犬鳴尋常小学校となる |
大正2.7 |
旧吉川村役場の改築完了、新校舎とする |
大正9.10 |
吉川尋常高等小学校犬鳴分校となる |
昭和16(※2) |
吉川国民学校犬鳴分校となる |
昭和22(※3) |
吉川小学校犬鳴分校となる |
昭和41.3 |
廃校 |
※1-3 当方による補足。それぞれ本文に記載はないが、明治19年に小学校令の公布、昭和16年に国民学校令の公布、昭和22年に学制改革が行われている
(児童数)
昭和15 |
昭和16 |
昭和17 |
昭和23 |
昭和24 |
昭和25 |
昭和26 |
昭和27 |
昭和28 |
昭和29 |
昭和30 |
昭和31 |
昭和32 |
昭和40 |
23 |
27 |
26 |
15 |
26 |
22 |
25 |
25 |
17 |
17 |
25 |
23 |
21 |
5 |
また当地は「犬鳴御別館」(犬鳴山御別館とも)が設けられていたことでも知られる。これは幕末より建築された福岡城の別館で、福岡城が海に面し防備に不都合であるため、有事に備え藩主を匿うために建築されたもの。当時諸外国の外圧に対し、各藩は軍備の拡張を迫られていた。福岡藩家老・加藤司書の提案により自然の要害となる犬鳴谷が選定され、元治元(1864)年建築開始。慶応元(1865)年勤王派への弾圧で加藤司書も切腹となり工事は一時中断するが、同年中に藩主の休憩所「犬鳴御茶屋」として完成。明治初頭まで藩の施設として利用されたが、同17年に倒潰したことが伝えられている。現在周辺は犬鳴ダム建設に伴う残土により元の地形は失われ、藩主館があった主廓のみが残っている。
さらにたたら製鉄にも縁があり、1700年代の文献にこれを窺わせる内容が記されているほか、幕末にも再興。安政元(1854)年には福岡藩営の犬鳴鉄山が操業を開始している(元治元〔1864〕年操業中止)。町誌ではこの地で製鉄が行われたのは、森林資源が豊富で、工程に必要な木炭の供給に好都合であったためとの見解を述べている。
集落の痕跡は、水没地はさることながら水没を免れた上流部でも確認は困難。ダム建設に伴い、園地や造成地となっており様相が大きく変わっている。確認できたものは、犬鳴御別館の一部の石垣(写真15)や、地図画像最上部に記されている往時の墓地(写真14)、「木炭窯跡」(写真18・19)など数少ない。なお湖岸の道路には庚申塔が多いが、湖岸のものは移設されたものだろう。
堰堤付近にある「犬鳴区移転者記念の碑」には、「民家28・精錬所2・公民館1・御別館1・学校1・犬鳴窯跡2・神社1・木炭倉庫1」と記されている。
以下は御別館敷地内にある「加藤司書忠魂碑」の碑文。
加藤司書名ハ徳成文政十三年三月五日福岡ニ生ル幼キシテ英資敏達長ズルニ隨ジテ文武ヲ修メ世禄二千八百石ヲ領シ福岡藩ノ中老トシテ重キヲ爲ス夙ニ勤王ノ志篤ク忠誠ヲ念トシ孝悌ヲ基トス一度廣島表ニ使スルヤ征長軍ヲ解散シ國内ノ和平ヲ唱ヘ明々詠シテ皇御國ノ准國歌トナリ忠孝両全ノ大本ヲ示シ長崎表ニ馳セテ魯艦ノ入港ヲ押ヘ五郷ヲ迎ヘテ太宰府ニ戴キ以テ維新勤王策源地トナシ薩長両藩ヲ握手サセ福岡藩ノ勤王黨ヲ統フ海防ノ急ヲ覺(※4)ルヤ海邊近キ舞鶴城ヲ不便トシ此ノ地ノ溪谷ヲ以テ第二ノ福岡城トナシ以テ一朝有事ノ際ニ備ヘントシテ犬鳴ノ別舘ヲ築ク由來コノ地一夫之ニ據レバ萬夫ニ當ルベキ天險不落ノ要害加フルニ彈藥ヲ貯ヘ兵糧ヲ充シ製鐵ノ工ヲ起ス等遠大ノ計畫ヲ樹立シ筑前藩ノ危急ニ備フルタメ別舘ヲ此ノ地ニ置ク惜シイ哉讒ニ遭ヒ勤王ノ誠忠天ニ達セズ遂ニ慶應元年十月二十五日萬解ノ長恨ヲ呑ミテ(この間判読できず)郡吉川村有志ソノ萬古ニ輝ク誠忠ヲ追慕シ成業ノ跡ヲ偲ビ茲ニソノ忠魂頌徳碑ヲ建立シテ萬世ニ殘ス仰ゲバ松籟颯々トシテソノ清節ヲ讃ヘ俯スレバ溪流潺々トシテ誠忠ノ賦ヲ奏スソノ赤誠ヲ孤高ノ名峯ノ明月ニ望ムベクソノ高風ハ重疊タル翠巒ニ應ヘ忠孝両全ノ遺訓永久ニ民風作興シ勤王ノ大義燦々トシテ日星ヲ照スベシ
※4 原文では上部が「與」の上部のような形
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