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◆網取(あみとり)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「背振山」(昭和21.10)を使用したものである

在:那珂川市五ヶ山(ごかやま)(訪問時は那賀川町)
地形図:不入道/脊振山
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約280m
訪問:2014年11

 

 大字五ヶ山の中部、那珂川左岸にある。五ヶ山川ダム建設に伴い離村しているが、堰堤の予定地より下流であり水没は免れる。
 五ヶ山ダム関係に伴い編纂された文化財調査報告書によると、離村前で田中6・山田3、城戸・香野・千葉・築地が各1の計13戸であったよう。ほか五ヶ山公民館もあった。古くから五ヶ山の中心地で、僅かな田での稲作(ほぼ自給用)や炭焼きを行う山村であった。特に炭焼きは、昭和38年頃までは収入を得るための重要な仕事であった。昭和30年代の南畑(みなみはた)ダムの建設に伴い土木業へと転向する者が増加。林業・農業が衰退したこともあり、交通の便も良くなったためその後は農協・役場・会社に勤めることが一般的となっていった。
 集落の氏神・山神社は、大正年間に町内市ノ瀬(いちのせ)の日吉神社に合祀。しかしその後も社地・社殿は残されたため、引き続き氏神として祀られてきた。
 集落の南のはずれには墓地と納骨堂があり、近くには「船地蔵」も祀られている(現在は移設)。この地蔵はかつて盛んに信仰され、縁日には町外からの参詣者もあり、出店が並ぶほど(『郷土誌 那珂川』より)であったが、昭和50年代前半頃より衰退していったのではないかとしている。

 現在は集落の大半が新設の国道の用地となり、一部の農地跡と薬師堂・山神社が残されている程度。元住民が時おり訪れるであろう簡素な家屋も建てられている。なお神社を見て旧道まで引き返してしまったため、墓地や納骨堂、さらに南にある五ヶ山小学校跡は未確認。

 


写真1 集落入口。旧国道(かつては手前から奥へ直進)や宅地は新国道(右)の盛土に埋もれている

写真2 新国道。もと宅地

写真3 残存した集落の一部

写真4 集落内の道

写真5 観音堂

写真6 写真5裏の五輪塔と立石

写真7 山神社鳥居

写真8 新国道の網取大橋(左奥は五ヶ山大橋)

 

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