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◆山田(やまだ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「小倉」(昭和23.4)を使用したものである

在:北九州市小倉北区山田町(やまだまち)
地形図:八幡
/小倉
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約20〜50m
訪問:2014年11

 

 区の西南部、小熊野(おぐまの)川上流部にある。現在は公園「山田緑地」として、人々の憩いの場となっている。
 
なおここでは現在の山田町の居住地や施設跡について述べるが、当地に所在した「小熊野」と「山田」は本来別々の大字に属し、複雑な所属の変遷を経て現在の山田町になっている。
 以下は市史(昭和58年刊行)および現地の「山田緑地のあゆみ」より、昭和以降の主な流れ。

 昭和9年、旧日本陸軍が当地に弾薬庫を建設して使用を開始(山田弾薬庫)。昭和16年にはほぼ最盛時の規模にまで拡張し、西日本一の規模と言われるまでになった(※)。191棟の建造物のうち、128棟が弾薬庫。
 終戦後の昭和20年10月、米軍が接収し引き続き弾薬庫として使用された。昭和40年開始のベトナム戦争等、当地からはしばしば弾薬が運び出されている。一方周囲は次第に宅地化が進み、住民に不安をもたらす存在となる。
 昭和44年、米軍は弾薬庫の機能を縮小する方針を示し、やがて開放される見通しとなる。昭和45年3月、市議会は弾薬庫の平和利用を決議。同年10月15日、米軍は正式に閉鎖を決定。昭和47年2月15日、土地は全面返還され大蔵省(当時)の管理下の国有財産となる。
 北九州市のみならず、防衛庁(当時)も自衛隊弾薬庫として引き継ぐべくこれを入手しようと画策していた。大蔵省は、防衛庁・北九州市双方の払い下げ要望に苦慮したが、昭和51年いわゆる三分割処理方針を決定(土地の3分の1ずつを、国の所有・地元の所有・保留地とするもの)。
 昭和61年、国有財産九州地方審議会「山田弾薬庫跡地の三分割処理について」答申、同年広域公園として都市計画決定。
 平成7年「森の家」が竣工し、山田緑地が部分的に開園。以後各施設の整備が進められ、平成12年には全体の整備が完了した。

 市史の五市合併以後編および「山田緑地のあゆみ」では昭和9年とあるが、市史の近代・現代編では、山田填薬所(山田弾薬庫)の着工は昭和14年、終戦直前竣工とある。当時の篠崎小熊野に、小倉兵器補給廠の山田分廠として開設し、火薬の保管・装填所として使用された。また市のサイトによると、この年に住民は移転させられているよう


 現在小熊野は公園の「芝生広場」および駐車場となっているほか、東側は財務省の所有地、北側は自衛隊(防衛省)の所有となっている(園の方の話より)。財務省側は園地方面から全く確認できないが、地図を見る限り特に目立った施設はない。防衛省側は公園内の道沿いに「防衛省山田訓練場」があるほか、高尾および篠崎の境界付近に何かの施設群があるよう。なお弾薬庫時代の施設は、芝生広場と駐車場一帯の平地に多数集まっていたことが窺える(1970年代の航空写真)。
 凡そ「森の家」より奥が山田で、こちらにもかつては施設が建ち並んでいた。本流・支流ともに塞がれた横穴(弾薬の貯蔵庫?)が散見され、また建物の遺構が支流の四の谷沿いで多く見られる。
 全体を通し集落があった頃の痕跡はかなり乏しく、一部で石垣と井戸が確認できたのみ(写真6)。

 

≪小熊野≫

写真1 芝生広場(施設密集地跡)

写真2 駐車場(同)
≪山田≫

写真3 「森の家」脇の分岐

写真4 同。本流左岸側(施設群跡)

写真5 湿性生態園付近(右岸側支流)

写真6 石垣と巨木。柵の中には井戸(本流右岸側)

写真7 「樹木園」付近

写真8 「森のゲート」脇の平坦地

写真9 道と平坦地(以下本流沿い)

写真10 平坦地

写真11 横穴

写真12 支流沿いの道(以下二の谷)

写真13 横穴

写真14 支流沿いの道(三の谷)

写真15 支流沿いの道(以下四の谷)

写真16 横穴

写真17 施設の遺構

写真18 同

写真19 同

写真20 同

写真21 竹藪(屋敷跡?)

写真22 施設の遺構

 

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