◆杖建(つえたて)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「檮原」(昭和28.11)を使用したものである
所在:檮原町上西の川(かみにしのかわ) 地形図:土居/梼原
異表記:杖立(旧版地形図)
形態:山中に家屋が散在する
標高:約700m
訪問:2017年1月
大字上西の川の北部。愛媛県城川町【現・西予市】とを結ぶ九十九曲峠の南東斜面に立地。
町史の「梼原町行政区画・旧小字図」には上西の川に「杖建」(「つえたて」のルビ)が見え、表記と読みはこれに拠った(表記については写真5の石造物にも準拠)。
訪問は上西の川より。集落を横断する横道まで作業道(車道)が通じ、やや急登の箇所もあるが車輌での訪問が可能。現地では2箇所の屋敷跡を確認。東部には津野勝興(※1)の墓である五輪塔と「津野孫次郎勝興公原座地」の碑(昭和53年設置)(写真10)・簡素な休憩所が設けられている場所がある。氏が隠棲した西村家の屋敷跡が付近にあるとのことだが、東側で確認した1箇所だろうか。墓地は屋敷跡の付近に見られたが、墓地のみが確認できた場所もありその近くには宅地があるものと思われる。
以下は碑文。
勝興公は津野氏廿二代の城主で智仁勇兼備の名将であった
此の頃土佐では長曾我部氏(表記ママ)の勢が強大となり公はこれと善戦したが津野氏は日を逐うて衰えた公は時勢の赴く処を明察し長曾我部氏と和睦し元親の三男親忠を請うて子として家名を保った
公は病不治であることを自ら知り剃髪して此の地に隠棲された
天正六年十一月廿一日を忌日とす
公の卒去によって津野氏の正統は絶えた
法名号
阜岫院殿〓〓瑞〓大居士(※2)
公逝いて茲に四百年有志相探り荒廃久しい墓地を修め五輪の碑を建て公の英名を永く伝える
なお現在は集落上部に鋪装された車道(林道?)が通じ、上部からの訪問も可能。この道路は九十九曲峠と町内宮野々(みやのの)付近に通じているよう。この場合、道路沿いにある津野勝興の墓・屋敷跡の説明看板(写真11)が降り口の目印となる。
※1 津野勝興(つの・かつおき)は土佐国の豪族・津野氏の22代当主。直系では末代の人物。長宗我部元親に降伏したのち、元親の三男・親忠(ちかただ)を養子に迎えた。津野家は長宗我部氏の家臣となったが、勝興は元親との和睦後仏門に帰依し、当地に隠棲。天正6(1578)年病死
※2 〓はそれぞれ「まだれに七」(「まだれに匕」と同義?)、「窗」の下に「心」(窓の異体字)、「たまへん(王)に秦」
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