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◆御五神島(おいつかみじま)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「魚神山」(昭和23.2)を使用したものである

在:宇和島市日振島(ひぶりしま)
地形図:日振島/魚神山
形態:海沿いの緩い谷に家屋が集まる
標高:約10m
訪問:2016年12月

 

 津島町【現・宇和島市】の岩松(いわまつ)港より西におよそ16q、日振島の喜路(きろ)より南南東に5q強にある島。集落は島の北西部に立地。
 集落跡にはコンクリートブロック造りの建物が数棟残っているが、すべて放置されてから年月が経過している。ただし神社(御五神神社。写真3)は最近改築されたようで、鳥居や小さな社殿は新しい。鳥居には「平成14年」とあり、社殿もこの時に再建したと思われる。集落奥の谷にはごく狭いながらも石垣で段々になった土地が見られるが、農地跡だろうか。最近の地図には見られる島を横断する破線の道(写真14)も訪れてみたが、篠竹などの植物が生い茂り進行が困難であったため数百メートルほどで引き返した。
 なお島には北向きの浜が数箇所あるが、船主の話では人家があったのはここだけであったという。

 以下は「角川」より当地の概要。

地名の由来は、「古来ノ口碑ニ伝フル所ハ、紀元860年代神功皇后三韓征伐ノ帰途、天候ノ為メ航路ヲ誤リタマヒ、…(略)…遥ニ東北ノ方ニ当リテ五個ノ灯明ノ光ヲ認メタマヒ、之ニ従ヒ船ヲメタマヘハ一島嶼アリ、今ノ御五神島ナリ。島名是ヨリ起ル」(「日振村誌」〔明治43年刊〕)
島の所有は、藩有地から明治初年官有地に、明治36年日振島に払い下げられたが、この間日振島住民の薪材の採取地として利用された
明治37年より開墾が始まり、明治末年7戸の入植があった。その後無住となる
昭和22年日振島出身の引揚者や戦争被災者により再度入植。同28年には代行開拓(国施策、県代行)に指定され、同34年には入植戸数20戸
昭和38年頃には住民はほとんど農業を放棄、サワラの一本釣りなどを生業としていた
昭和40年3月25日、最後に残った12戸が日振島に引き揚げ、再び無住となる

 なおHEYANEKO氏によると、当地には御五神小学校があったとのこと(昭和40年閉校)。また諸情報によると御五神中学校も存在していたよう。
 資料『シマダス』によると、小中学校の開校は昭和32年。また昭和35年には農村公衆電話設置。同37年には火力発電所が設置されたとのこと。

 


写真1 島全景(北側)

写真2 集落遠景

写真3 港

写真4 神社

写真5 建物跡

写真6 井戸

写真7 井戸

写真8 建物

写真9 同

写真10 同

写真11 同

写真12 同

写真13 谷筋の溝渠と農地跡?の石垣

写真14 島内の横道

 

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