※志度町・津田町ページ共通


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◆上野(うえの/ウエンノ)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「三本松」(昭和36.4)および地理調査所発行の1/50,000地形図「志度」(昭和22.3)を使用したものである

:さぬき市小田(おだ)/さぬき市鴨部(かべ)さぬき市津田町津田(つだちょうつだ)
地形図:志度/高松 讃岐津田/三本松
形態:山中に家屋が散在する
標高:約210〜300m(農地含む)
訪問:2020年1月

 

 大字小田の南部、大字鴨部の北東部、大字津田の北西部に亘る開拓集落。耕地は北山の頂上一帯(通称「上野山」)に広がっていた。
 志度町史および津田町史によると、開拓の主な流れ以下のとおり。

終戦直後、引揚者の就労と食糧増産が緊急の課題であった。昭和21年、鴨部の松岡福太郎氏が鴨部・小田・津田の3町村の共同事業として当地の開拓の許可を得た
入植者の選考の結果、鴨部村11戸、小田村11戸、津田町10戸の計32戸の入植が決定。農業会香川県連合会の緊急開拓事業として、松岡氏が主任となり昭和21年12月着手。のち事業は法の改正により農業会が解体し、国営となる
農産物はタバコ・裸麦・小麦・甘藷・馬鈴薯・ラッキョウなど。ほか柑橘類の栽培ものちに盛んとなった。畜産でも乳牛8頭をはじめ豚・ヤギ・緬羊・鶏が取り入れられた
飲料水に不便を感じることもあったが、その後小型自動車が通れる道路が通じ、昭和32年末には電灯も引かれた
食糧事情が良くなると、交通不便であった当地からは入植者は相次いで下山。昭和40年8月4戸となり、昭和42年2月には全戸が離村した
昭和25年鴨部小学校上野分校が開校。当時教師1名、児童13名。昭和38年3月閉校
開拓地はその後18戸の農家で結成された大仙農事組合に移り、乳牛・肉牛の牧場が開かれた。昭和45年からは観光を採り入れた牧場の経営を目指したが、採算が取れず後にゴルフ場が建設された

 なお志度町史では「上野開拓地」、津田町史では「上野山開墾」の見出しとなっている。また戦後の開拓以前、明治初年に津田より移住した細川氏が、狩猟をしながら農地を3反ほど開墾、大正10年まで3代に亘り生活していたとのこと。

 現地は開拓農地も含め、全域が讃岐カントリークラブの敷地内となっている。昭和39年の航空写真では、現在のクラブハウスの裏手にあるトマトの農業用ハウス(写真2)の辺りから東側にかけていくらかの家屋が集まっている(津田地内)。これらは後年まで残った家々だろう。また1番ホールと2番ホールの間の車道のカーブ付近には、大型の建物とそれに伴う空地のようなものが見える。HEYANEKO氏の調査から鑑み、これは学校である可能性が高い(志度地内)。

 


写真1 クラブハウス

写真2 農業用ハウス

写真3 池

写真4 ホール

写真5 ホール

写真6 井戸?

写真7 学校跡付近?

(写真8 上野川)

 

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