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◆山風呂(やまぶろ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「川口」(昭和26.5)を使用したものである

所在:三好市池田町松尾(いけだちょうまつお)
地形図:阿波川口/川口
形態:谷沿いの斜面に家屋が集まる
標高:約700〜760m(登り口は532m)
訪問:2011年11月

 

 町の南東部、松尾川左岸支流の山風呂谷沿いにある
 町史によると、
昭和26年8戸、46年7戸31人、50年3戸14人、55年4戸11人、57年2戸10人。電灯の導入は昭和37年。
 集落にはかつて学校(出合小学校山風呂分校)があり、児童数は昭和23年頃13人(最多)。同40年頃までは10人前後であったが、休校前の3年間(※)は1人、同55年度は0となった。沿革は以下のとおり。

※ 本文では「廃校年度以前の三年間」とあるが、辻褄が合わない

 明治24.9.24  松尾尋常小学校の分教室として設置
 昭和4.6.10  松尾分教場の山風呂分教室となる(松尾尋常小学校が石内尋常小学校と統合し出合小学校が創立し、松尾分教場となった)
 昭和8.4.1  松尾分教場廃止。出合尋常高等小学校山風呂分教室となる
 ?  この間、山風呂分校と改称
 昭和55.3.31  休校
 昭和57.3.31  廃校


 以下は同書記載の旧住民の話より、当時の暮らしや離村までの過程を要約したもの。

焼畑でヒエ・ソバ・ミツマタを作った。風が強かったため麦はできなかった。ミツマタは商品作物
家のそばの畑では、イモ類やトウキビを作った
製炭はしなかった
昭和30年前後から、近くの山の植林・下草刈りが賃仕事としてあった
この頃松尾川の電源開発が始まり、宮石(くいし)から松尾川ダムまで自動車が通れるようになった。集落から道路に降りれば30分程度で出合まで出られるようになったが、それまでは山道を登り降りして2、3時間かかっていた
電灯が導入されて以降、これまで暮らしていた分の金では生活ができなくなり、出稼ぎにでるようになった。この頃にはミツマタ作りもやめていた
昭和45年頃には山の木の手入れがいらなくなったり、材木の値が下がったりで山仕事がなくなり、次第に困窮。子供の通学のこともあり、離村を決意した


 集落へは車道が通じているが、やや荒れている。現地では最後に離村した家と思われる状態の良い家屋や、整備された墓・分校校舎・堂宇などが見られた。なお登り口の県道脇には1軒の家屋(写真12)があるが、本集落からの転出者が居を構えたものだろうか。

 


写真1 水場


写真2 家屋


写真3 墓地


写真4 分校・校庭


写真5 分校・遊具


写真6 分校・校舎


写真7 屋敷跡


写真8 堂宇


写真9 石仏


写真10 農地跡


写真11 「山伏之墓」


写真12 県道沿いの家屋

 

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