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◆粟島(あわじま)
(善入寺島(ぜんにゅうじとう)



※ 明色部
※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「川嶋」(明治36.6)を加工し使用したものである

所在:阿波市(国有地)・吉野川市(国有地)
(かつては市場町香美(いちばちょうかがみ)・同大野島(おおのじま)・同伊月(いつき)、川島町宮島(かわしまちょうみやじま)・同児島(こじま)・同三ッ島(みつじま)、土成町群(どなりちょうこおり)、鴨島町知恵島(かもじまちょうちえじま)
地形図:川島/川島 市場/川島
形態:中洲に家屋が集まる
離村の背景:遊水地帯化に伴う退去
標高:20m弱
訪問:2011年11月・2018年8月・2018年12月

 

 吉野(よしの)川の中洲で、市場町の南東および川島町の北東部などに亘る地域
 市場町史・川島町史・「角川」より、当地の概要を述べる。

 善入寺島は吉野川とその支流の善入寺川(粟島川)との間に形成された川中島で、古くから居住があった。忌部氏が開拓したといわれている。
 島はまとまった1つの村ではなく、改修前には市場町香美・八幡町粟島・同大野(おおの)・同伊月【以上、のちの市場町】、川島町宮島、学島(がくしま)村児島【以上、のちの川島町】・柿島(かきしま)村柿原(かきはら)、土成村郡(こおり)【以上、のちの土成村】等の一部で構成されていた。
 移転前約500戸3,000人。
 土壌が砂礫土であるため水稲の栽培は不可能で、陸稲や蔬菜・藍の栽培が多かった(市場町史)。
 畑作地帯で藍作の適地でもあり、同時に甘蔗も栽培。これらが化学染料や台湾産の甘蔗に押されて以来養蚕が主流となり、農地は桑畑に変わった。その他に甘藷・大根・スイカなどを栽培(川島町史)。
 吉野川の洪水により毎年数回の浸水に悩まされていたが、そのたびに肥沃な砂壌土が堆積していった。適当な湿りを持つこの砂壌土は藍作に好適であった。明治20年代までは藍栽培が盛んであったが、同28年インド藍、同35年にドイツの化学染料が輸入され、藍作りは急速に衰退し、養蚕業に転換した(角川)。

 明治40年吉野川改修工事計画が発表され、当地は内務省により善入寺島と命名(古くは「善入寺」という寺院があったことから)。吉野川の遊水地帯とするため全島民の立ち退きが命ぜられた。大正2年春頃までに全域の買収が完了。島民は移転料を交付され、同3年末までに約100戸が移転。大正4年に強制退去命令が出され、全戸移転が完了したのは大正5年であった。遊水地化に伴い、家屋や墓碑はもとより樹木も切り払われ、一面の平地となった。
 立ち退きの際旧地主に無料耕作が許され、桑・陸稲・イモ類・麦・タバコなどを耕作した(大正14年4月以降は有料)。
 昭和2年吉野川改修工事が完了。
 潜水橋が架かると渡船による不便がなくなり、その後耕地整理が行われて農道が縦横に通じた。

 橋のなかった時代、渡船として善入寺川に伊月渡し(五平渡し)・大野島渡し・千田渡し(善入寺渡し)・香美渡し(宮田渡し)、吉野川に粟島渡し・川島浜渡し・三ッ島渡し・大さん渡し・和平須賀渡しがあり、多くは私営であった。このうち粟島渡しには篤志家の寄付金により運営された時代があり、「無銭渡し」の別名がある。また川島浜渡しは両岸の支柱とケーブル・滑車で水流を利用し船を動かす仕組みで、「岡田式」の渡船と呼ばれた。
 のち橋梁として、善入寺川に香美橋(昭和29年完成)・千田橋(昭和30年)・大野島橋(昭和初期に木橋が架設されていたが、昭和10年拡幅、昭和28年現在の潜水橋が完成)、吉野川に学島橋(昭和30年)・川島橋(昭和37年)・阿波麻植大橋(昭和56年)が架けられた。

 島内には以下の学校があった。

(旧八幡村)
 明治8  字中須賀に粟里小学校開校。
 明治10  粟島小学と改称
 明治12  粟島小学校となる
 明治19.10  粟島尋常小学校となる
 明治36.4  粟島尋常高等小学校となる
 明治37.4  粟島尋常小学校となる
 大正4  閉校。八幡尋常高等小学校に統合

(旧市場町)
 明治(時期不詳)  香美尋常小学校藤太夫須賀分校開校(※1)
 明治(22年10月以前)  香美尋常小学校藤太夫須賀分教場となる
 明治25.4  藤洲尋常小学校となる
 大正4  閉校。市場尋常高等小学校に統合

※1 現地の標柱(後述)によると明治7年創立

(川島町)
 宮島小学校。

 また島内には主に以下のような神社があった(位置は資料『粟嶋史』より)。

・宮島八幡宮…宮島字宮ノ本。村社。川島の城山に移転し川島神社と改称。岩山の上にあり洪水時に浮き上がっていたため、浮島八幡宮の別名があった。
・中道神社…旧学島村児島須賀。村社。児島の八幡神社に合祀。
・杉尾神社…大字香美字藤太夫須賀。もと香美本村から遷されたものであったが、香美の八幡神社に合祀。
・八條神社…旧八幡村字本須賀。粟島村の村社。改修工事の際、島内の中須賀戎社・高尾須賀戎社・西須賀三宝荒神社・東北須賀愛宕神社と山神社の6社を合祀し、粟島神社と名づけ、八幡の八幡神社に合祀。
・金刀比羅宮…旧伊月村字前須賀。伊月の事代主神社に合祀。

 その他の主な旧蹟をいくつか挙げる(位置は資料『粟嶋史』より)。

・善入寺…大字香美字善入寺。大野寺の末寺。現在は吉野川左岸の堤防となっている。川島町史では、古くは島内にあり川筋の変移で島から離れた位置になったであろうと推測している。創立・廃絶の年代不明。
・極楽壙…宮島字極楽。古来の墓穴。島民は墓標を作らず、この穴に死者を葬る習慣があった。明治以降は墓標を作るようになる。
・極楽庵…宮島字極楽。極楽壙の隣にあった。改修工事の際には既に廃絶している。
・宝幢寺…旧八幡村字本須賀。延宝の大洪水で流失。本寺の大野寺に合祀。
・阿女須賀…粟島でもいちばんの低地にあったが肥沃であり、35戸ほどの人家があった。しかし洪水のたびに家屋が流され、改修工事までには1戸も残らなかった。別名「アメリカ」とも呼ばれた。

 資料『粟嶋史』の付属地図によると、島内には以下のような小字が存在していたよう。〇は移転前においての居住の有無、括弧内は主な施設等(町村・大字の区分は当方の判断に拠った)。

・旧八幡町大野島(市場町)
 高尾須賀〇(粟島村政場・戎社)・西須賀〇(三宝荒神社)・中須賀〇(粟島小学校・駐在所・戎神社)・本須賀〇(八條神社・宝幢寺)・東北須賀〇(山神社・愛宕神社)・西北須賀〇・木屋須賀・阿女須賀(※過去に居住あり)・前須賀
・旧八幡町伊月(市場町)
 前須賀〇(金刀比羅宮)
・旧市香村香美(市場町)
 藤太夫須賀〇(藤洲小学校・杉尾神社)・善入寺須賀
・旧桑川村宮島(川島町)
 西ノ森〇(警察駐在所・宮島小学校)・宮ノ本〇(宮島八幡宮)・極楽〇(極楽庵・極楽壙)・宮西〇・北須賀〇・市ノ島〇・西市ノ島〇・王子〇・西ヘリ・堤外・オツケ
・旧学島村児島(川島町)
 児島須賀〇(中道神社・得守神社)
・旧学島村三ッ島(川島町)
 三ッ島須賀
・旧土成村群(土成町)
 前川原
・旧柿島村知恵島(鴨島町)
 北大須賀(※流失前と思われる家々が記載されている)
・旧柿島村柿島(鴨島町)
 (小字の記載なし)

 なお川島町史に和平須賀(前出の地図画像右上)は字前須賀の通称との記述があるが、旧柿島村の所属であることから知恵島の北大須賀を指すものと思われる。

 大字川島の城山には「移転之碑」があり、これには「宮島及接續地繿コ之一部(※2)」の「人家百戸」として宮島地区100名の移転者の名が刻まれている。川島町史より移転先の内訳(県内)は以下のとおり。

 川島町40(旧川島町27・旧学島村13)・鴨島町36(旧西尾(にしお)村12・旧森山(もりやま)村11・旧鴨島町7・旧牛島(うししま)村6)・市場町9(旧市場町7・旧八幡(やわた)町1・旧大俣(おおまた)村1)・徳島市2(旧徳島市1・旧加茂名(かもな)村1)・石井町1(旧浦庄(うらしょう)村)・穴吹町1(旧穴吹村)・山川町1(旧川田(かわた)村)・阿波町1(旧久勝(ひさかつ)村)。県外では朝鮮1・北海道虻田郡3・大阪市5となっている。また姓は後藤田が21と最も多く、次いで河村9・森8・尾池7・石川5・酒井4・宮田4・川村3・鴻野3・大和3・今川2・河野2・高橋2・高村2・中2・宮本2・宮森2、青山・新居・石田・伊藤・蛭子・大塚・清本・五島・小山・中西・野口・浜崎・林・板東・福井・福永・三木・岑田・峯田各1。

※2 現在の右岸側の宮島地区と思われる

 なお大字宮島は吉野川右岸にも及び税務署や合同庁舎が所在するが、こちらにも住居はなく大字全体が無住地。「角川」によると、大字宮島は近世の麻植郡宮之島村。明治22年、桑川(くわかわ)村(のち川島町)の大字となる。明治24年147戸832人


 現在は見渡す限りの田畑が広がっているが、休耕地も多い。建造物は農作業に伴う小屋などが僅かに見られるのみ。

 


写真1 吉野川と川島橋。彼岸が粟島(善入寺島)


≪川島町宮島地区≫

 

 2018年冬の訪問時、宮島八幡宮跡地を示す標柱(写真4)を確認。これには「洪水で沈没しないので別名がついた 別名浮島八幡宮跡」「吉野川改修工事のため岩山を採取して池になった」などとある。

 


写真2 畑

写真3 ?

写真4 ?


写真5 宮島八幡宮付近の池


写真6 宮島小学校付近?


≪川島町旧学島村地区≫

 

 

◆◆写真はありません◆◆

 


≪市場町旧八幡村地区≫

 

 2018年夏訪問時は宝幢跡を示す石柱(写真13)を見たのみであったが、同年冬の訪問時には参考資料をもとに新たに個人屋敷跡(写真14)・火薬庫(写真15)・粟島小学校跡(写真16)・粟島渡しおよび光明庵跡(写真18)・大野島渡し跡(写真19)の標柱を確認。

 


写真7 農地

写真8 道と農地


写真9 同


写真10 農地

写真11 道と農地

写真12 同


写真13  宝幢跡の石柱(中央)と道標(左・右)(本須賀)


写真14 後藤田佐蔵家屋敷跡(高尾須賀)。「吉野川改修工事により大正五年三月切畑字池ノ本西森屋敷へ移転」とある

写真15 火薬庫跡(西須賀)「明治 大正年間の吉野川改修工事に使用した火薬の貯蔵庫」

写真16 粟島小学校跡(中須賀)

写真17 畑。往時の石垣が見える(中須賀)

写真18 粟島渡し跡・光明庵跡

写真19 大野島渡し跡。「渡しの始期江戸時代 渡しの終期昭和二十七年」などとある


≪市場町旧市香村地区≫

 

 2018年冬訪問時、藤洲小学校跡・杉尾神社跡(写真22)の標柱を確認。これには以下のように記されている。

藤洲小学校跡
明治七年伊藤繁三郎宅に創立 大正四年吉野川改修工事のため市場尋常高等小学校に合併
松尾神社跡
延宝年間香美本村より移鎮し 大正八年吉野川改修工事のため香美八幡神社に合祀された

 


写真20 道と農地

写真21 農地

写真22 藤洲小学校跡・杉尾神社跡


≪鴨島町旧柿島村地区≫

 


写真23 阿波中央橋より和平須賀方面を望む

写真24 堤防北側の農地

 

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