戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ

 

◆大了寺(おおりょうじ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「船木」(昭和21.10)を使用したものである

所在:下関市菊川町中山(きくがわちょうなかやま)
地形図:田部/厚狭
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約160m
訪問:2023年1月

 

 大字中山の南部、迫ヶ浴川(木屋(こや)川支流)上流部にある。観光スポット・中山渓(ちゅうざんけい)のさらに奥。
 現地へは中山渓方面および湯の原ダム方面より道が通じているが、前者を利用。道中所々に道しるべの看板があるが、右岸の車道から左岸の歩道への徒渉箇所のみ分かりづらく注意が必要。
 なお途中には大了寺鉱山跡への案内もあるが、こちらは未訪問。現地では数箇所の屋敷跡や谷に沿った農地跡が見られた。集落南西の道の状況を見る限り、湯の原ダム方面からは車輛による訪問が可能であるよう。

 町史によると、神社として「竜王社」があったという。また寺子屋教育の記述で「浄国寺の隠居は明治初1868年ごろまで、大了寺の櫛山家へ出張して教授した」という一節がある。
 書籍『小日本昔ばなし』によると、かつては10戸くらい、昭和の終わりには無住となったとのこと。壇之浦の戦いで源氏に敗れた平家の一門がここまで逃れて隠れ住み、大了寺という寺を建立したことが集落の始まりと伝わる。内賀家屋敷の前に当時の古井戸が残り、坊主屋敷と呼ばれているという。
 また鉱山については、初めて掘られたのは日清戦争当時の明治27、8年。続いて日露戦争の明治37、8年。最後が第一次世界大戦当時の大正元年から3年までであった。埋蔵量が少なく長くは続かなかったものの、一時は各所に飯場が並び、働く人は100人近くにもなるほど賑わったという。

 


写真1 現地への道

写真2 何かの跡

写真3 谷と道

写真4 農地跡

写真5 石垣

写真6 屋敷跡

写真7 写真6の遺構

写真8 屋敷跡

写真9 集落内の立て札

写真10 集落内の道

写真11 瓦

写真12 屋敷跡

写真13 谷

写真14 開けた水田跡

写真15 小屋と廃車

写真16 写真15屋敷跡の遺構

写真17 同

写真18 溜め池

写真19 屋敷跡

写真20 写真19にて。井戸

写真21 集落南西の鞍部。左が大了寺、右が東中山・湯の原ダム方面

写真22 鞍部西側の溜め池

 

戻る 前へ 次へ 市町村選択ページへ 都道府県選択ページへ トップページへ