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◆勧農坂(かなざこ)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「呉」(昭和22.6)を使用したものである

在:呉市安浦町中畑(なかはた)字勧農坂/呉市広町(ひろまち)
地形図:安芸内海
/呉
異読:かんのうざか・かんのんざか
形態:峠付近の緩い谷に家屋が集まる
標高:約530〜600m?
訪問:2013年8

 

 大字中畑の西部にある。野呂(のろ)山の北西約1.6km。一部は広町に含まれているよう。
 町史によると、幕末に野呂(野路)山周囲一帯で大規模な開拓が行われ、ここはその中心地であったという。「かんのう坂」または「かんのん坂」とも呼ばれていた。侍屋敷跡が残されており、藩から派遣された勧農方(かんのうがた)が駐在していたと考えられるとのこと。神社跡が3箇所。
 なお読みについて町史では「かなざこ」が主、「かんのうざか」が副に扱われており、見出しはこれに拠った。
 以下は当地を含めた野呂山開拓の沿革。

 文政11(1828)

 広島藩が野呂山の開拓を決定

 天保4(1833)  勧農坂から立小路(たてこうじ)にかけて約200戸が入植(最盛期は210戸)
 天保5(1834)  勧農坂に野路神社を勧請(※)
 天保7(1836)  大凶作や疫病などのため、離農者が続出。戸数激減
 天保9(1838)  戸数32
 明治初期  藩としての事業は中止されたが、のち旧藩士の救済政策として再開
 明治11  野呂山の地籍を関係各村へ分属。開墾後の放棄地は官有とした
 明治22  野呂山で天然氷の製造が開始

 明治27

 呉の氷業者が勧農坂入口の馬離場池の氷を採取し、販売開始
 昭和21  戦後の開拓。野呂山開拓団として71戸294人が入植(その後75戸)。勧農坂付近は避けられた

※ 現在は川尻町内の一本杉付近に遷座


 訪問は林道郷原野呂山線より。現地では大小の溜め池や農地跡、屋敷跡のほか、神社跡と思われる一角も確認できた。広町側ある大きな溜め池は、先述の「馬離場池」か(写真3)。ほか猪垣や石畳も見られ、これらは開拓当時のものであるという。

 


写真1 集落内の道(以下広町)(赤い筋はフィルムの感光)

写真2 溜め池(馬離場池?)

写真3 集落内の道(以下中畑)

写真4 溜め池

写真5 神社跡(拝殿)?

写真6 何かを祀った場所?

写真7 屋敷跡にて

写真8 瓦

写真9 屋敷跡?の石垣

写真10 石畳

画像 野呂山(野路山表記)(下)と勧農坂(左上)・立小路(右上)

 

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