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◆黒島(くろしま/クルシマ)



※ この地図は、内務省地理調査所発行の1/50,000地形図「倉橋島」(昭和21.8)を使用したものである

所在:呉市下蒲刈町下島(しもかまがりちょうしもじま)
地形図:上黒島/倉橋島
形態:海沿いに家屋が集まる
標高:数m〜
訪問:2022年11月

 

 下蒲刈島の南に位置する島々。東の上黒島(かみぐろじま)と、西の下黒島(しもぐろじま)からなる。
 町史によると、地元では「クルシマ」と呼ぶ人が多いという。
 同書で引用する「芸藩通志」(※1)には、いずれにも田地があったことが記されている。また「蒲刈志」(※2)には、上黒島に2、3戸の民家や神社(祇園社)があることが記されている。
 昭和初期、上黒島に7戸。いずれも西側の浜(エイノマエ)付近に居住。当時川尻町【現・呉市】の橘家本家の所有であったため、住民は小作農で農業に従事。毎年川尻まで赴き米や麦を上納していたという。田畑があったが農業だけでは生活が苦しかったため、半農半漁の生活をしていた。1戸は石材業。集落の後方には祇園社があり、鳥居は石造の立派なものであった。
 昭和12、3年頃、永野氏の所有となる。海岸には石垣が築かれ、家々も新しく建て替えられた。永野氏の別荘も建てられ、管理人が滞在し島を管理していたという。
 戦時中は北西の浜付近(ホソゴウ)に海軍の施設が設けられ、魚雷実験所や宿舎などがあったという。
 昭和22年の農地改革により、小作人であった住民は土地の分譲を受けた。その他の土地は下蒲刈島大地蔵(おおじぞう)の人物が購入し、出作を開始。水田のほか、甘藷・麦・柑橘類などを栽培。
 昭和20年代末、1戸が離村したのを機に他の家も次々に転出。昭和48年、大新土木に売却された。
 下黒島は仁方の「コメヤ」の所有であったが、大地蔵の7軒が購入。昭和15年頃には海軍の見張所があった。

 また資料『シマダス』によると、戦前は15世帯ほどが生活していたが戦後間もなく下蒲刈島へ引き揚げたとのこと(※3)。昭和30年の国勢調査では再び人口43人を数えるが、昭和51年には再び無住となった。その後、地元の土木会社が採石のため買収。採石跡地を利用し、平成元年に東京の業者により上黒島に産業廃棄物の最終処分場が作られた。下黒島では採石が行われている。

※1 文政8(1825)年完成の地誌
※2 文化12(1815)年完成の地誌
※3 上黒島・下黒島個別の人口は不明

 上黒島は、「ホソゴウ」より上陸。昭和22年の航空写真では軍事関連の施設と思われる大型の建物が建ち並んでいるが、現在は深い藪に覆われその痕跡は確認できない。なお浜の北端には供養塔(大新土木による設置。写真4)があるが、島で暮らした人々もしくは軍事関連の犠牲者を供養したものだろうか。昭和63年3月と刻まれており、先の東京の業者に渡るのを機に置かれたものであるよう。
 下黒島は、北東部の半島の付け根付近より上陸。旧版地形図にはこの部分に建物が記されているが、その痕跡は確認できなかった。ただし一帯は農地跡で、所々に石垣も見られる。なお下黒島にも処分場が造成されており、平成21年の航空写真では既にその存在が確認できる。

 なお下黒島単独の写真および上黒島・下黒島を1枚に収めた写真も撮影したが、不具合により別のデータに上書きされてしまったため掲載ならず。

 

≪上黒島≫

写真1 島遠景(東側より撮影)

写真2 ホソゴウ遠景

写真3 ホソゴウの浜。藪は軍事施設跡

写真4 供養塔

写真5 道

写真6 高みから東を望む。左遠方は上蒲刈島の南東端

写真7 処分場船着場(エイノマエ)遠景
≪下黒島≫

写真8 上陸箇所

写真9 石垣

写真10 尾根上の平坦地

写真11 農地跡の穴

写真12 処分場俯瞰

 

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