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◆横島(よこしま)



※ この地図は、国土地理院発行の1/25,000地形図「柱島」(昭和42.4)を使用したものである

所在:呉市倉橋町(くらはしちょう)
地形図:柱島/柱島
形態:海沿いから斜面にかけて家屋が散在する
標高:数m〜
訪問:2022年11月

 

 倉橋島の倉橋港より、南南西におよそ6.5qにある島。

 町史および資料『シマダス』によると、近世期には広島藩の牛の放牧地であったという。昭和20年10月に倉橋島の本浦(ほんうら)・須川(すがわ)・尾立(おたち)・室尾(むろお)・鹿島(かしま)から38戸の引揚者が開拓組合を結成し入植。まず最初にジャガイモを作り、サツマイモ・麦・スイカ・除虫菊・タバコなどを栽培。昭和25年には倉橋小学校・倉橋西中学校の分校も置かれた(昭和40年閉校)。昭和25年の国勢調査では人口130人を数え、同30年86人、同35年46人、同40年11人、同45年には無住となる。離農者は開拓した畑を倉橋や鹿島の農家に売却し、ミカンなどが植えられ出作りに来るものもあった。現在も一部にミカン畑があり、出作り耕作が営まれている。
 町史で引用する『瀬戸内海の旅』(昭和36年刊行)では、当時13戸45人。他の島からの出作りで始められたミカン栽培が成績を上げているという記述がある。

 また資料『離島振興実態調査報告書』によると、入植は須川3、本浦3、室尾3、尾立14、鹿島20の合計43戸(教員含む)。最初は38戸であったが、昭和26年に3戸加わって41戸。土地の配分は北側が室尾・尾立・須川など、南側が鹿島・本浦で、北側は明神、南側は新代に集落を作った。島には1周の農道もつけ、2、3年で開墾を終えた。肥料が十分でなかったこともあり、最初はイモ・麦を主体に作付を行ったが、成績は思わしくなかった。現在(※)島でよくできたのはゴボウと大根。タバコの耕作者が1名。配給の米を買う金銭がないので、自分たちで作ったイモと麦だけで生活している。
 開拓当初は海が利用できるという希望を持ち船を持って渡った人もいたが、島には波止場もなく、浜に引き揚げていた船も冬の波風で壊れてしまった。町により明神浜に小さな波止場が設けられたが、あまり十分なものではなかった。昭和33年、明神浜にコンクリートの護岸が造られたが、同年のうちに跡形もなく損壊している。このため、浜に船を引き揚げることもできなくなってしまった。現在
(※)島に船は1つもなく、病人を本島に搬送することもできず、作物も自由に売りに行くことができなかった。交通機関は本島とをつなぐ郵便船のみで、作物の運搬にも賃料がかかり、また塵芥や汚穢は輸送の対象外であった。なお最近(※)電話が開通し本島と直接連絡をすることができるようになった。

※ 刊行は昭和35年

 また資料『しま』より中国新聞の引用によると、昭和34年1月12日分校校舎が火災により焼失し、教員宅の一室で住宅で授業が行われていたという。町当局へ再建の陳情を続けたが、費用の負担には消極的であった。しかし島の実情を憂慮した町長の意嚮により、町の全額負担による再建が決定。昭和36年6月6日、大工らが島に派遣され、その日のうちに再建が叶った。

 上陸は桟橋のある島の北岸中部より。現在も続けられている通い耕作もここから上陸して行われているようで、桟橋や運搬用モノレールの発着点がある。レールをたどった先は管理された柑橘畑。また浜の東側の小さな谷沿いでも建物跡が見られた(写真11・12)。前出の地形図は事後に入手したため意識はしていなかったが、この付近が学校跡付近であったことが分かる。
 時間の都合で上陸した浜一帯の探索にとどまったが、過去の航空写真では島の各地に開拓地が見られ、建物も確認できる。

 


写真1 島遠景(北側より撮影)

写真2 浜

写真3 
桟橋。遠方は倉橋島

写真4 モノレール

写真5 同

写真6 途中の建物跡

写真7 貯水槽

写真8 畑と小屋

写真9 畑

写真10 貯水槽

写真11 建物跡

写真12 建物跡

 

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