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◆丹原(たんばら)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「加計」(昭和22.2)を使用したものである

在:広島市安佐南区沼田町阿戸(ぬまたちょうあと)
地形図:坪野
/加計
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約460m
訪問:2013年5

 

 大字阿戸の北西部、高山(たかやま)川左岸支流(丹原川)の上流部にある。
 以下は資料『ふるさと丹原』より要点の抜萃。

集落の起源は、延久5(1073)年 有馬中将千賀守兄弟が美濃の国から落ち延び住み着いたと伝わる
集落は丹原川本流(足洗(アッシャラ)谷)の東谷と、左岸支流の西谷に大きく分かれる
神社は産土神の大年神社(西谷右岸)のほか、自然石を御神体とした「地よしの神さん」(西谷左岸支流)がある。「地よし」は祖先が最初に住みついたとされる場所のひとつで、屋敷跡と2つの溜め池跡があり、昭和20年頃までは耕作も行われていた。大年神社は昭和56年、安佐町久地
(くち)に遷宮。イラストより、神楽殿・拝殿・本殿、境内には桜の木があったことが窺える
記録上の最盛期は明治33年の28戸
明治39年山火事により、東谷に1、2戸を残しその他の家と大年神社が焼失
道路の開通は大正5年。電灯の導入は昭和22年
田畑の耕作をしながら、次のような生業で収入を得ていた
・木挽き…スギやモミなど。大正7年頃までは道路がなく丸太のまま運ぶことができなかったため、板か角材にして湯来町【現・広島市佐伯区】の草谷まで峠を越え徒歩で運搬。板材の運搬は明治30年頃まで女性も従事。角材は重いため、壮健な男性が担当。草谷まで運んだ後は、舟筏により広島まで流された。道路が開通すると、馬が引く荷車を用い丸太のまま搬出することが可能となった
・炭焼き…各戸とも炭窯を作り、秋の収穫が終わると中年や老人が従事した。運搬は阿戸の問屋まで
・山林の手入れ
明治7年、教育の端緒として民家に教場が設けられる(いつしか廃止)。明治27年丹原小学校開校。明治35年安佐町久地の高山
(たかやま)に高原尋常小学校(※)が開校し、廃止された。

※ のちの宇賀(うが)小学校高山分校。高山の「高」と丹原の「原」から命名

明治40年以降、集落にあった家は以下のとおり。
*概ねそれぞれの谷の上流より
*昭和21年の戸数の増加は疎開・被災のため
*所在の「分岐」は、合流部より下流にあるもの

  屋号 所在 明治30年頃 明治40年頃 大正年間 昭和18年頃 昭和21年頃 昭和40年頃 昭和46年 備考
1 上原 有馬 西谷    
2 久保     中原 中原    
3 池田 池田 池田    
4 国吉屋              
5 苗岡 苗岡            
6 古屋敷 有馬              
7 香川      
8 上林      
9 山根              
10 吉岡        
11 上河内        
12 中田屋        
13 東谷          
14 江木        
15    
16 山本屋 有馬            
17 山城屋     柴田 柴田    
18 平岡              
19   昭和48年転出(別の記述では昭和50年)
20            
21 平本          
22 段畠

             
23 有本 分岐          
24 中屋            
25 先之地      
26 折出              
27 若佐屋    
28 後河内              


 現在集落には、西谷・東谷いずれの谷筋にも農地跡や複数の宅地が確認できる。集落入口には「丹原の跡」の碑が立つ(写真2)。以下は碑文。


郷土丹原は約九百年前有馬中将千賀守が故あってかくれ住んだ所と伝えられ 約三十戸の有馬一族が住んでいた 交通が非常に不便なので相次いで此の地を去り遂に無人の地なり感慨まことに無量 ここに祖先の遺業を偲び郷土の歴史の一部を記して
これを後世に伝える


 これに記されている姓は有馬23戸のほか、場・寺田・住井・湯浅・大下・台・三宅・川本・清水・車地・佐々木・門田・松山・皿末各1戸の計37戸。

 


写真1 標識。高山との分岐

写真2 碑

写真3 屋敷跡入口(以下東谷)

写真4 電柱

写真5 遺構

写真6 農地跡

写真7 屋敷(中田屋)跡(以下西谷)

写真8 写真7にて

写真9 屋敷跡

写真10 同

写真11 屋敷跡

 

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