◆神(こう)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「勝山」(昭和35.6)を使用したものである
所在:真庭市神
地形図:勝山/勝山
形態:山中に家屋が集まる 離村の背景:本文参照
標高:約500m
訪問:2012年5月
大字神の北部山中にある。神林寺(じんりんじ)を中心に、かつては十を超える僧坊があり、多くの僧が生活していた。
以下は町史より、昭和以降の離村までの主な流れ。
昭和初期には、住職・小作の家族合わせて3世帯10人前後が生活し、自給用の田畑があった
戦後の農地改革により小作地からの収入が途絶え、小作の家族はブラジルへ移住。住職の家のみとなる
山上の痩せ地・天水に頼る灌漑のため住職の家族のみでは耕作が十分にできず、寺領の山林の伐採による収入の割合が大きくなる
住職が退職したことにより寺領の山林からの収入が見込めなくなり、離村に至る(昭和30年12月)
神林寺(真言宗)については、709年開基とされる(詳細は後述の沿革史)。無住となったのち荒廃が進み、落合町【現・真庭市】日名(ひな)の善福寺に仮の堂を建て、本尊が安置された。
町史刊行当時、本堂は既に崩壊。観音堂を補修した仮本堂も傷みが激しく、参道もひどく荒れ、また八十八箇所の石仏(写真2か)は境内に集めて置かれていたという。現在は鐘楼・本堂も再建、「八十八箇所の石仏」は参道に並べられている。また多くの花木や往時の建物の位置を示す看板があり、散策路も整備。訪れた人々が楽しめるようになっている。
以下は現地の「神村山神林寺沿革史」の全文。
神村山神林寺と号すは、当地に法霊権現を祀るが為である。
また、当山は吾妻鏡に『美作の国神林寺内に、故幕下将軍家追福の奉為に三重の塔婆を建てんと欲す。仍って寺僧等材木の事等を申す。仍って今日当国の杣山を採用すべき由仰せ下さるる所なり。』と名を残す古刹である。
今から一三〇〇年前、和銅二年(西暦七〇九年)に弥次と弥三という兄弟の猟師有り。山へ鹿を追って入り、千手観音菩薩像を発見して祀ったのを始まりとする。
その後、約三五〇年後円誉上人が宋から御経、仏像、仏舎利を請来、それらの宝物を寺に納めて祀った。そのことが遠く京の都の後白河法皇の耳にも届き、神林寺は、法王が国家安穏、五穀豊穣を祈願する寺となったのである。
鎌倉幕府をひらいた征夷大将軍
源頼朝は、美作の国の守護であった梶原景時に命じて神林寺を改修。寺は鎌倉幕府の庇護を受けて栄え、頼朝の死後三代将軍
源実朝の時代に頼朝の供養のために三重の塔を建立した。
その後、応仁の乱は日本全国に広がり、神林寺にも戦禍は及び堂宇はことごとく焼失したが、高田城の三浦駿河守貞連が再建。その後の戦に備えて僧兵を準備した。
しかし、永禄七年大火災により再び本堂などの堂宇を焼失。大火から後、時の普善寺(現在の木山寺)の宝月坊は「宝月坊勧進帳」を作成。各地からの寄付を募り、再建に尽力した。
その後にも時の領主の変遷、火事、台風などの災害に遭うなどの事件が有り、神林寺の勢力は次第に衰えていった。
慶長九年。当時の領主
森忠政公から田畑二十三石四升三合、山林東西二十一町、南北十九町を拝領。
現在は、堂宇
本堂(観音堂)、鐘楼堂(平成六年再建)、仁王門を残すのみ。山林約百町歩、東に奥の院
瀧谷不動尊有り。
なお「角川」によると、大字神は近世の真島郡神村。明治22年川南村(のち久世町)の大字となる。明治24年4戸15人。
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