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◇神林寺補足

 

 現地の「神村山神林寺沿革史」の全文

 神村山神林寺と号すは、当地に法霊権現を祀るが為である。
また、当山は吾妻鏡に『美作の国神林寺内に、故幕下将軍家追福の奉為に三重の塔婆を建てんと欲す。仍って寺僧等材木の事等を申す。仍って今日当国の杣山を採用すべき由仰せ下さるる所なり。』と名を残す古刹である。
 今から一三〇〇年前、和銅二年(西暦七〇九年)に弥次と弥三という兄弟の猟師有り。山へ鹿を追って入り、千手観音菩薩像を発見して祀ったのを始まりとする。
 その後、約三五〇年後円誉上人が宋から御経、仏像、仏舎利を請来、
それらの宝物を寺に納めて祀った。そのことが遠く京の都の後白河法皇の耳にも届き、神林寺は、法王が国家安穏、五穀豊穣を祈願する寺となったのである。
 鎌倉幕府をひらいた征夷大将軍 源頼朝は、美作の国の守護であった梶原景時に命じて神林寺を改修。寺は鎌倉幕府の庇護を受けて栄え、頼朝の死後三代将軍 源実朝の時代に頼朝の供養のために三重の塔を建立した。
 その後、応仁の乱は日本全国に広がり、神林寺にも戦禍は及び堂宇はことごとく焼失したが、高田城の三浦駿河守貞連が再建。その後の戦に備えて僧兵を準備した。
 しかし、永禄七年大火災により再び本堂などの堂宇を焼失。大火から後、時の普善寺(現在の木山寺)の宝月坊は「宝月坊勧進帳」を作成。各地からの寄付を募り、再建に尽力した。
その後にも時の領主の変遷、火事、台風などの災害に遭うなどの事件が有り、神林寺の勢力は次第に衰えていった。
 慶長九年。当時の領主 森忠政公から田畑二十三石四升三合、山林東西二十一町、南北十九町を拝領。
 現在は、堂宇 本堂(観音堂)、鐘楼堂(平成六年再建)、仁王門を残すのみ。山林約百町歩、東に奥の院 瀧谷不動尊有り。

 

 

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