◆高島(たかしま)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「益田」(昭和33.6)を使用したものである
所在:益田市土田町(つちだちょう)
地形図:三隅/益田
形態:海沿いの斜面に家屋が集まる
標高:約50m
訪問:2013年5月
土田町の漁港から北(やや西寄り)に10km弱、また西平原町(にしひらばらちょう)の岬「魚待ノ鼻(うおまちのはな)」より9km強に浮かぶ島。
以下は市誌より集落に関する記述の要約。
島内に平坦地は少なく、人家は南東部の緩傾斜地に集中。河川はまったくない
港があるが簡素なもので、荒天時の寄港は至難であった
僅かに名産「高島海苔」が有力な収入源であった。沿岸に水産資源があるものの、繋船の難しさもあり漁業は主流ではなかった
高島は別名「七戸島」とも呼ばれ、7戸以上増えることは禁忌であった。しかし明治以降堕胎が禁止され、人口は漸増
生活用水は長く雨水と湧水に頼っていたが、昭和26年に貯水槽が完成
昭和27年、発電機を設置。電灯導入
昭和22年10月、定期船運行開始。ただし冬季の就航は波が荒く困難であった
昭和34年8月31日、無線電話開通。それまでは狼煙や焚き火で本土との連絡がなされていた
昭和38年の豪雪や同47年7月の豪雨、また時代の趨勢から出稼ぎや挙家離村が見られるようになり、高齢化も進行。昭和48年5月の県知事の来島を機に、島民の本土への移住が決定した
高島の見える市内土田町の後溢地区に、11戸の住宅と事業場1棟が完成(「高見」と命名)。昭和50年、島民全員の移住が実現
鎌手小学校高島分校は、明治45年分教場として設置。鎌手中学校高島分校とともに、昭和50年3月廃校。
(戸数・人口の推移。昭和以前)
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元禄8 (1695) |
宝永2 (1705) |
宝永7 (1710) |
正徳2 (1712) |
宝暦9 (1759) |
宝暦11 (1761) |
明和7 (1770) |
天明3 (1783) |
天明7 (1787) |
安政2 (1855) |
慶応4 (1868) |
明治2 |
明治5 |
明治26 |
戸数 |
8 |
8 |
10 |
4 (※) |
4 |
4 |
5 |
6 |
6 |
6 |
6 |
6 |
6 |
7 |
人口 |
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|
47 |
18 |
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25 |
26 |
30 |
32 |
|
26 |
31 |
29 |
48 |
※ 鼠害のため激減
(同。昭和以降)
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昭和4 |
昭和8 |
昭和23 |
昭和28 |
昭和30 |
昭和35 |
昭和40 |
昭和42 |
昭和43 |
昭和44 |
昭和45 |
昭和46 |
昭和47 |
昭和48 |
昭和49 |
戸数 |
11 |
13 |
16 |
16 |
18 |
16 |
15 |
13 |
10 |
12 |
14 |
13 |
12 |
12 |
12 |
人口 |
84 |
87 |
113 |
97 |
114 |
80 |
76 |
45 |
40 |
35 |
41 |
37 |
35 |
35 |
35 |
(児童・生徒数)
年度 |
昭和30 |
昭和33 |
昭和34 |
昭和35 |
昭和36 |
昭和37 |
昭和38 |
昭和39 |
昭和40 |
昭和41 |
昭和42 |
昭和43 |
昭和44 |
昭和45 |
昭和46 |
昭和47 |
昭和48 |
昭和49 |
児童 |
15 |
16 |
19 |
18 |
14 |
12 |
17 |
9 |
10 |
8 |
5 |
3 |
2 |
3 |
2 |
3 |
5 |
4 |
生徒 |
7 |
5 |
5 |
5 |
7 |
9 |
11 |
8 |
8 |
6 |
4 |
5 |
3 |
3 |
2 |
1 |
1 |
1 |
また資料『石見高島の秘話』より、その他の情報を補記する。
住民の姓は、島内11戸、岡村2戸、高浦・西来・西川が各1。このうち島内氏が土着の家で、屋号「表屋」が総本家。岡村氏は幕末の頃古市場(※)より婿入りしたのが始まりで、それぞれ本家と分家。高浦氏は、明治元年古市場(※)より移住した。浜崎氏は、明治期に浜田から漁業のため来島、そのまま婿入りし、自分の姓を名乗った。西来氏は本来高島生まれであったが、黒松村(現在の江津市黒松町)で養子縁組したのち妻を連れ島に戻った
神社は祇園社。中央の南岸低地にある。境内末社として、大元社・地主社・蛭子社が祀られている
全戸が浄土真宗。昔から三保村(のちの三隅町【現・益田市】の一部)の明光寺を菩提寺とする
墓地は上と下の2箇所
産業は漁業・農業が主体。漁業では、旧来から遠洋漁業に雇われる若者が多かった。また近海では、各自が所有する船でイカ・ブリを主体として小規模な漁撈を行っていた。ほか磯釣りのタイ(高島鯛)・ノリ(高島海苔)は名物で、後者は山陰では出雲の十六島(うっぷるい)海苔とともに有名であった。農業では、麦を主体にほかエンドウ・ソラマメ・粟・黍・甘藷・蕎麦・大豆・ナス・大根を栽培。田は皆無で、麦と甘藷を主食としていた。土壌は薄く痩せており、耕作には適していない
飲料水は、従来から共同墓地の近くにあったあった井戸と、昭和26年に作られたコンクリート製の貯水槽に湧水を溜めたもの(なお当時〔昭和35年刊行〕で、水源地から集落まで鉄管を引き、ポンプで汲み上げる簡易水道を設ける計画が持ち上がっている)
※ 三隅町【現・益田市】の古市場(ふるいちば)と思われる
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