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◆板井原(いたいばら)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「智頭」(昭和27.10)を使用したものである

在:鳥取市用瀬町赤波(あかなみ)
地形図:智頭/智頭
アクセント:イタイバラ
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:自主的な集団離村
標高:約350m
訪問:2012年5月

 

 大字赤波の南西部、赤波川の上流にある。
 定住者はないものの、現在も通いで田畑の耕作が行われているため明るい印象がある。
 以下は当地でお会いした元住民の話を要約したもの。

 かつては22軒、離村時は20軒。
 農業や山仕事で暮らしていた集落だが、高度経済成長期には現金収入を得るために工場へ働きに出たり出稼ぎ(男は土建など。女は田の耕作の手伝い)に出たりする家が増えた。やがて
子供の教育(※)や嫁の来手などの問題が深刻化し、「集落再編モデル事業」の先駆けであった八東町妻鹿野横地に倣い、隣の杉森も交えて集団移転を計画。国に諮ったが、同じ県に2つのモデルはできないとのことで適用は見送られてしまう。その後地元農協が主体となり、町の補助により移転が実現。移転先の造成工事の費用は国が負担したが、土地の購入は個人持ち。集落の山を売ったりして工面したという。
 現在は3組が耕作などのために行き来している。
 神社は宮小谷(みやこだに)神社。

※ 3年生までの児童は集落内の分校に通学したが、4年生からは鷹狩(たかがり)の興徳(こうとく)小学校へ通学。寄宿舎ができると月曜日から金曜日までを寄宿舎で過ごし、週末に帰るといった生活を送ったという(廃校まで) 

 HEYANEKO氏の調査によると、学校(興徳小学校板井原分校。のち用瀬小学校板井原分校)は昭和49年休校、同54年閉校。
 町誌より、刊行直前の児童数の変遷は以下のとおり。

 

昭和42

昭和43 昭和44 昭和45 昭和46 昭和47
児童数 11 10 10 7 7 4

 また同書によると、明治5年の戸主として飯田6、谷口3、石井2、谷村2、中山2、池本・米田各1の17世帯が挙げられている(なお寛政6年11戸、文久3年14戸、昭和47年21戸)。
 なお板井原は近世の智頭(ちず)郡板井原村。下板井原村とも。もとは赤波村の枝郷。明治10年赤波村に合併(角川)。


写真1 碑

写真2 碑

写真3 集落にて

写真4 集落にて

写真5 廃屋

写真6 倒潰家屋

写真7 廃屋

写真8 廃屋

写真9 家屋

写真10 屋敷(母屋)跡

写真11 屋敷跡

写真12 水田

写真13 神社・鳥居

写真14 墓地

写真15 墓地

 

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