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◆平畑(なるばたけ)

※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「坂根」(昭和27.1)を使用したものである
所在:智頭町大呂(おおろ)
地形図:郷原/坂根
異表記:成畑(町誌)
形態:谷沿いに家屋が集まる
標高:約460m
訪問:2026年6月
大字大呂の東部にある。
資料『智頭町の木地屋』によると、もと4戸で現在(刊行は昭和48年)は1戸の廃屋と田畑、数十基の墓碑が残っているとある。
明暦年間は大畑山にいた木地師の長右衛門・久七・清三郎の3人とその家族が、寛文年間にこの地に移住してきた(「氏子駈帳」の記録より)。
寛文5(1665)年6戸、同10(1670)年5戸、貞享4(1687)年3戸、元禄7(1694)年1戸。その後の氏子駈帳には平畑の木地師の名を見出すことができない。
町誌によると、成畑の奥山に木地師が入り、稼業に就いたことが分かるもっとも古い記録は寛文5(1665)年の「氏子駈帳」に記載された6戸。これらの人たちは明暦3(1657)年には河津原の大畑にいたが、材を伐り尽くしたと見えて当地へ移ってきた。
次は貞享4(1687)年、4軒の名が見える。
それ以降は文化12(1815)年の「大呂家文書」に「成畑深山へ木地挽、年久しくしおり申し候て、のちに御百姓に相成候えども、その者立ち退き…」とあって、その後の記録がない。なお成畑の木地師が百姓となったとき、弥左衛門所有の印畑(痩せた土地)3畝が4人に貸し与えられたが、年貢は大呂家の弥左衛門が納めていたという。
木地師たちが立ち退いた跡に入った人々については木地師であるか近隣の百姓であるかは分かっていないが、弥左衛門の名子(奉公人)となり庇護を受け、成畑を7代に亘って開墾したというのが真相か。のち名子は7人となり大呂家では家来筋として扱われたよう。のちにこれらの人々がそれぞれ大呂姓を名乗り、分家し、大呂村を拓いていったと思われる。
表記については、『智頭町の木地屋』では「平畑」、町誌では「成畑」(括弧書きで「平畑」)としている。
また「角川」の小字一覧には大呂に「成畑(ナルバタケ)」「成畑ノ上(ウ)エ」があり、見出しの読みはこれに拠った。
現地では、道沿いの屋敷跡とその山側にある墓地(大呂家)が見られた。農地跡はあまり広くは見られない。なお墓地には大呂家のものとしてまとまった数の墓石があるほか、時代が古いものをまとめたようなものもある。奥山にあった木地師の墓を移したものだろうか。
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