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◆紀ノ川河口右岸旧集落群(仮称)



※ 明色部(現在新日鐵住金和歌山製鉄所の用地となっている区域)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「和歌山」(昭和3.10)を加工し使用したものである

所在:和歌山市湊(みなと)・同松江(まつえ)
地形図:和歌山/和歌山
形態:平坦地に家屋が集まる
標高:数m
訪問:2019年4月

 

 大字湊の北西部および松江の南部、紀ノ(きの)川河口付近の右岸にある。現在の新日鐵住金和歌山製鉄所の完成以前に存在していた集落群。湊に外浜・西谷・中谷・東谷・隠居谷、松江に庚申といった集落名が見られるが、個々に関する情報に乏しいためここでは一括して扱う。
 市史および資料「和歌山製鉄所」(住友金属工業発行の小冊子)によると、製鉄所の建設着手は昭和15年12月、同17年4月より操業開始。
 当時和歌山市周辺では重工業の誘致が図られており、昭和14年8月には県より総務部長・経済部長らが県出身有力者や住友金属工業株式会社(当時)本社に接触していった。住友側も将来の工場立地のための用地を求めていたところであり、両者の意向が一致していたことが推測される。
 住友側は用地買収・海岸の埋め立ておよび築港の許可、漁業権買収の尽力を和歌山県に求め、県はこれらの要求を受諾。昭和15年2月、湊・松江・木本・野崎・西脇野各村の村長や助役を県庁に呼び、土地買収の内交渉を行い、17日には松江小学校に関係者715名を集めて一挙に調印に持ち込んだ。関係者の事情を考慮しないものであったため様々な問題が起こったが、若干の離作料が上積みされたのみで、買収は強行されたという。
 また「角川」の湊村(近世)の項目では、「小名に外浜・御膳松がある。外浜は右岸西方にあり、北は松江村、西は海に臨む。南は紀ノ川河口をはさんで…」「外浜から北西に続く海浜は二里ヶ浜と呼ばれた」「外浜の家数はおよそ40軒(続風土記)。砂地が多く、水田はないが畑作が行われている」といった記述がある。
 なお資料『松江の今昔』には「庚申さん」の逸話があり、旧庚申地区に関するものと思われる。以下参考までに概要を記す。

 東松江の庚申さんは、江戸時代末期より畑道・浜道・外浜への三叉路に当たる字「庚申」に祀られていた。
 昭和15年、周辺は工場用地として買収。「庚申さんを触ると祟りがある」という言い伝えがあったが、奇しくも買収に関与した人々が相次いで死亡。住友も庚申さんを構内に置き続ける措置をとった。
 昭和20年進駐軍に接収された際、一兵卒の悪戯により本尊が行方不明となったが、その後講中により再び本尊が祀られた。
 その後高度経済成長に伴い工場建設も進み、庚申さんも遷座を余儀なくされた。ところが境内のエノキの枝を切り落とした2人の人夫が「怪我をした」「病気になった」「相次いで死亡した」と噂された。当初は住友が経費を負担、工事を受け持ち祭祀は地元民の手で行うという話であったが、そのうち講中の人々も祟りを恐れ遷座には関与しなくなり、住友は一切を任せられることとなる。市内高松(こうしょう)寺の僧侶の協力を得ることでようやく遷座の見通しが立ち、「お詣りだけはして下さい」ということで講中の人々との折り合いがついた。
 遷座式には住友金属・鹿島建設・地元関係者が参加。高松寺・松林(しょうりん)寺の住職により式典が厳粛に行われた。本尊は松林寺の仮殿に奉遷され、昭和39年3月12日、新築された庚申堂に本遷座された。


 現在は全域が工場の敷地内のため、外周から集落跡方面に向かって写真を撮るにとどまった。先の小冊子の工場配置図と照合すると、外浜は第一転炉工場およびスクラップヤード付近、西谷は帯鋼工場西側、中谷は第二製管工場と第三製管工場の間、東谷は第二製管工場付近、隠居谷は工作工場付近、庚申は厚板工場と冷延工場の間にあったことが分かる。

 


写真1 紀の川河口大橋より外浜方面を望む


写真2 県道より西谷方面を見る(この先およそ300m)


写真3 県道より中谷方面を見る(この先およそ300m)


写真4 県道より東谷方面を見る(この先およそ300m)


写真5 紀の川河口大橋より中谷・東谷方面を望む(左の煙突付近が中谷、右の煙突付近が東谷)


写真6 県道より隠居谷方面を見る(製鉄所南門。この先およそ100m)


写真7 河西緩衝緑地より庚申方面を見る(この先およそ400m)

 

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