◆根来窪(ねごろくぼ)
※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「粉河」(昭和22.9)を使用したものである
所在:紀の川市桃山町峯(みね)
地形図:龍門山/粉河
形態:谷沿いに家屋が散在する
標高:約510m(地名表記付近)
訪問:2023年5月
大字峯の東部、深山谷(真国(まくに)川支流)沿いにある。
町史・「角川」および資料『紀の川流域の歴史と文化をたずねて』によると、寛文8(1668)年新田開発。元和・寛文の頃(1615-73)は7、8軒であった。細野(ほその)庄内であったが、その支配を受けていなかったという(「続風土記」より。編纂時4戸20人)。
地名の謂れは、天正年間(1573-92)豊臣秀吉の兵火に追われた根来寺の衆徒の多くが高野領の山間部に逃れ、その一部がここに留まったためと伝わっている。当地を新田というのも、衆徒が帰農し新田を開発したためと伝わる。
当地にあった林家の家伝によると、200余年前(※)まで同家に僧兵が用いた武具があったが、鎧・兜は盗難に遭い、刀も俗人が持つと祟るとのことで村の金比羅神社に奉納したとのこと。
弁財天社・普光寺があったことが記録に残っているが、その跡は定かではない。
東端のツツジ峠から尾根伝いに通じる道は「新道三里が峰」といい、細野住民(峯・中畑(なかはた)・垣内(かいと))の高野街道であった。
明治6年4戸21人。明治24年3戸27人。桃山町発足当時(昭和31年)は数戸があったが、町史刊行当時(※)では既に無住。
また当地は江戸期から明治22年までは那賀郡根来窪村であった。明治22年細野村の大字となり、昭和32年峯の一部となる。
※ 町史刊行は昭和47年
確認できた屋敷跡は、上の地図画像で記されている1箇所のみ。農地跡は狭隘な谷に沿ってかなり下流から断続的に広がっている。また「深山渓谷ハイキングコース」であることから、滝や淵といった自然のスポットを示した立て札が多いのも特徴的。
なお最近の地形図では深山谷に沿って実線の道が記されているが、中畑方面への分岐より上流は軽自動車でも限界の幅で、転回可能な場所までの退避場所もごく限られているため、二輪車もしくは徒歩が推奨される。また勝谷方面からは、道の荒廃により四輪車の通行はできない。
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