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◆迫(せ・せい/セー)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「釋迦ガ嶽」(昭和29.3)を使用したものである

所在:十津川村旭(あさひ)
地形図:辻堂/釈迦ヶ岳

形態:川沿い面に家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約450m(水面は約460m)
訪問:2013年12月・2014年3月

 

 大字旭の中部西寄り、旭川(十津川支流)沿いにある。
 資料『十津川採訪録』によると、もと7軒。水没で退去したときは5軒。氏神は若宮神社。行者が下りてきたものや隠れ人がまずここに住み着き、それから中谷(なかたに)や栂の本(とがのもと)が開けたらしいとのこと。読みは「セー」。家々は以下のとおり(括弧内は屋号)。

番号 屋号 備考
1 平岡 坪井  
2 中森 弓場 3のインキョ
3 中弓場 弓場 水没により村内上野地(うえのじ)へ移住
4 岸本 岸尾
5 西村または岩崎 西村 上野地へ移住
6 福田 福井 迫でもっとも古いといわれる
7 福本 木村 10の後に入居。五條へ転出
8 坪井 坪井 1のオモヤ
9 ナカヤ   水害で北海道へ移住
10 マスヤ(升屋) 木村 北海道へ移住。のち7が入居
11 平野坂 転入者
12 小椋 転入者
13 中前 転入者。和歌山の有田から流れ、3での使用人となった

 なお『十津川の地理』では昭和34年13戸61人としている。

 集落は現在の奥吉野発電所の付近にあり、水没もしくは施設用地に転用されている。以下は現地にある碑(写真7)の全文。

 碑記

 この地にあった集落「迫」の歴史は、遠く室町時代に大峯回峯の人々が住みついた時に始まると伝えられる。
 爾来六百有余年の間、
住み人は「迫と背中は見ずに死ぬ」とたとえられるほどの秘境にあって、子々孫々田畑を開き、材木を樵るかたわら、「迫の座」「お日待」などの信仰を守り、「迫の大踊り」を踊りつぎ、互いに助けあいながら、きびしい自然環境の中にも平和な暮しを送っていた。
 関西電力は、昭和四十六年迫地点を大規模揚水発電の最適地として着目し、各種調査のうえ地元の同意を得て、発電所建設を決定し、迫の集落は旭ダム湛水池内に水没することとなった。そのため昭和四十九年迫の人々は、近隣の人々との離別を惜しみながら墳墓の地をあとに、新しい天地を求めて旅立っていった。建設工事が始まると迫は五十八万立方米の土石により五十万ボルト開閉所敷地として埋立造成されるとともに、その一部は昭和五十三年二月五日の旭ダム湛水により、永久に姿を消した。
 奥吉野発電所の建設は、昭和四十六年に準備工事に着手し、地元の方々の協力のもとに、実に九年間の歳月と延百二十万余の人力、七百八十億の巨費を投じて、ここに出力百二十万六千キロワットの大揚水発電所が完成した。
 旭ダムの建設に先立ち、旭ダム民俗調査会により民俗、文化財をはじめ動植物、民家、歴史資料等の調査が行われ「旭ダム関係地民俗等調査報告書」としてまとめられ、文政四年(千八百二十一年)に建築された旧木村家住宅は、奈良県立大和民俗公園に移築され、貴重な民俗資料として保存されている。

 この湖底に永劫にねむる、かずかずの歴史と、みおやのみたまに捧げ、この碑を建立する。

 昭和五十五年四月十七日  関西電力株式会社


 なお水没移転者として、岸尾・西村・平野阪・福井・福井・弓場・弓場・木村の各氏が、水没移転神社として若宮神社・手平神社が記されている。
 現地はほかに見学施設「旭エレハウス」があるが、訪問時は閉館。湖畔には旧道が確認できるほか、西側の突端には何かの跡地が見られた。

 2014年訪問時、発電施設の裏手で農地跡を確認。標高差約100mほどに亘って、石垣が築かれた段々の土地が続いている。

 


写真1 ダム堰堤
(以下2013年)

写真2 路傍の石仏

写真3 集落付近

写真4 右に瀬戸ダムからの放水口、左に旧道

写真5 上流を望む。奥は迫大橋

写真6 発電所施設

写真7 碑

写真8 何かの跡

写真9 何かの跡?

写真10 遺構
(以下2014年)

写真11 農地への階段(往時からのもの?)

写真12 道と農地跡の石垣

 

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