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◆大谷(おおたに)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「龍神」(昭和28.7)を使用したものである

所在:十津川村大谷
地形図:重里/龍神
訪問:2010年10月

 

 西(にし)川支流、大(おお)谷の左岸山中にある。
 大谷の下流より大まかに下番・中番・奥大谷の3つの地区に分かれ、スキャン画像で「大谷」と記されている付近が下番。未確認だが奥大谷は「上番」に該当か。ただし資料『十津川』での分け方は大谷・箱木(中番の一部?)・奥大谷。同じ分け方の『十津川の地理』によると、大谷4戸14人、箱木1戸6人、奥大谷3戸21人(昭和34年)。
 以下はかつての住民(昭和2年生まれ。15歳まで奥大谷に在住)から、分かる範囲で各戸の状況を伺ったもの。

  屋号 転出先
下番 下垣内(しもがいと) 桝谷(ますたに) 和歌山・新宮市
今中(いまなか) 今中? 桝谷?
松下(まつした) 松下
前岡(まえおか) 村内西中(にしなか)
俵野(とうらの) 桝谷 矢倉。火災によりのち奈良・橿原市
箱木(はこぎ) 箱木。のち松下? 箱木家は北海道、のちの家は村内重里(しげさと)
中番 4、5軒あったが明治22年の水害によりほとんど潰滅。生存者1名が北海道へ
奥大谷 梅平(うめんだら) 松下 西中
安之上(あんのかみ) 桝谷 今西など
徳屋(とくや) 松下 西中
裾垣内(すそがいと) 原田(はらだ) 西中・矢倉(やぐら)
銀本(ぎんもと) 今中

 また以下は「吉野郡水災誌」(※)で確認できる姓と屋号(ただし明治22年水害の罹災家屋のみ)。伊豆本〜前玉は中番。

屋号
伊豆本 坂本
亀岡 桝谷
桝屋
前玉
宮ノ下 今中
上高畑 桝谷
佐古 箱木
裾垣内 松下
銀本 今中
唐羅野
(先述の「俵野」か)
箱木
(記載なし) 今中
中阿
下高畑

 罹災前は24戸(男61・女54)、罹災後19戸(男54・女47)。この際「大谷神社」も全壊している。同書の「移住表」によると8戸(男23・女20)が北海道の樺戸郡に移住。水害に伴うものと思われ、11戸に減少か。

 以下は資料『十津川学校史』より明治期まであった学校の沿革。

 明治8.8  大谷村寺の岡に大谷小学校を創立
 明治8.8  今西村にある第百三十八番小学校に合併
 明治16.7  今西小学校(前・第百三十八番小学校)より分離、今西小学校大谷分校を設置
 明治20.4  大谷小学校簡易科教場と改称
 明治23.1  西中尋常小学校と合併、廃校


 なお大字大谷は近世の吉野郡大谷村。明治22年、西十津川村(のち十津川村)の大字となる。明治15年23戸100人(「角川」より)。


※ 「吉野郡水災誌」は、内容の一部を閲覧者様より提供していただきました

 


≪下(しも)番≫

形態:山中に家屋が散在する
異表記:大谷(旧版地形図、他資料)
標高:約320〜550m


 矢倉から大谷に入って最初にある地区。上記の家のうち下垣内・松下・俵野・箱木の屋敷跡を確認。松下・箱木では屋敷跡の近くに墓地(それぞれ松下家・箱木家)もある。箱木はやや離れて北部に立地。朽ちた建材が今も確認できるが、離村が比較的最近だったのだろうか。
 地区中心部の道脇には石仏があり(写真1)、道の分岐にもなっている。直進すると中番・奥大谷方面。右は熊野古道に合流、左は前岡・俵野を経由し大谷(河川)に下る。なお石仏には文字が刻まれており、道標になっているよう。崩し字がよく分からなかったが、「かうや」(高野山の「高野」か)の文字が読み取れる。
 『十津川』によると、「大谷」で昭和34年4戸14人、「箱木」で1戸6人。

 


写真1 道と石仏

写真2 屋敷跡の石段


写真3 屋敷跡


写真4 墓地


≪中(なか)番≫

形態:山中に家屋が集まる
離村の背景:災害
標高:?


 下番・奥大谷の間にある地区。箱木を通過した後、やや傾斜が緩くなった辺りで屋敷跡・農地跡のような場所を確認(写真5)。ただしこの先には水の豊富な沢があり(スキャン画像中央やや右寄り)、ここで地区を分けるのが自然なようにも思える。中番であるとの確信は持てなかった。

※ 『十津川』では「大谷」「箱木」「奥大谷」という分け方をしており、箱木は中番の一部である可能性もある。

 


写真5 農地跡?


≪奥大谷(おく―)

形態:山中に家屋が集まる
異表記:上(かみ)番?(未確認)
標高:約500〜550m?


 大谷のうち最も奥にある地区。下番より中番を経由し訪れることができるが、途中で引き返してしまったため改めて大谷沿いの林道(奥大谷支線)より訪問。登り口は分かりづらいが、最近の地図でも道が記載されており道もしっかりしている。
 日没が迫っていたため詳しい探索はできなかったが、家屋は比較的近い場所に固まっていたようで、石垣や石段が狭い範囲に集中して見られた。このうち1箇所には廃屋が残る。
 『十津川』によると、昭和34年3戸21人。

 


写真6 廃屋

写真7 屋敷跡


写真8 石垣

 

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