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◆大谷(おおたに)

所在:名張市大谷
地形図:名張/名張
形態:川沿いに家屋が少数集まる?(中世) 谷沿いに家屋が少数集まる(昭和期)
標高:約210m〜(昭和期)
訪問:2026年8月

 

 名張市南町(みなみまち)より、名張川を西に越えた対岸にある。

 資料『名張の歴史』には、下巻刊行時(昭和36年)において「現在の大谷は 山腹に稲荷堂があるだけで、人家も耕地もない」とある。しかし嘉暦2(1327)年の東大寺文書「悪徒交名注進文」に、大谷の住民として黒田悪党(※)の兵衞太郎入道・江三郎入道・孫次郎入道の名があり、14世紀初頭にはここに集落と耕地があったことが分かる。この時の集落は名張川と頓子山の間の平地にあったが、名張川の移動により消滅したと推測される。
 また大字地内にある頓子山子安地蔵は、昔から「頓子地蔵」あるいは「頓子さん」の名で呼ばれ、子供が授かる霊験があるというので参詣者が多かっという(本来は頓子山山上にあったもの)。伝説では、名張城主・松倉豊後守が子供に恵まれず、この山上にあった石仏に祈願したところ一子を儲けたので、小堂を建てて子安地蔵と称したのが始まりとのこと。対岸の観音寺にある子安地蔵は、この子安地蔵の分身。

※ 荘園の黒田荘において、領主(東大寺)の支配に抵抗した武士集団

 「角川」によると、大字大谷は昭和18年からの名張町(のち名張市)の大字で、もとは名張町内の字名。中世には集落・耕地のあった記録はあるが(東大寺文書・有徳者交名)、江戸期には人家はなく、現在は大谷稲荷神社があるとのこと。昭和55年1戸1人。

 現在は南町・朝日町(あさひまち)の境界付近に沈下橋が架かり、通常の水位であれば大谷側に渡ることが可能。
 先の資料の記述より近世期の家々は名張川沿いにあったようだが、流路の変化によりそれらの痕跡は失われて久しいと思われる。何かの石積みも見られたが、関連は不明。
 最近の地形図では大字南部の谷に建物が2箇所記され、下流側では廃屋、上流側でも屋敷跡が確認できた。これらは過去の航空写真出も確認でき、少なくとも昭和期に2戸が居住していたようだが、地形図では平成28年発行分までは建物や道の記載がない。また下流の宅地から上流の稲荷社付近まで、至るところに数多くの神仏を祀った石造物が見られるのが特徴的。稲荷社は、社殿が既に倒潰している(写真11)。
 なお沈下橋からやや名張川に沿って少し上流に行くと子安地蔵と山神があり(写真20・21)、こちらも大字大谷の領域。現地の 「頓子山子安地蔵由来」では『名張の〜』とは少し異なり、豊後守が諸国遍路の最中に出会った老人より、子安地蔵を祀り信仰すれば子が授かるとの助言を受け、石工に男女2体の地蔵を作らせ頓子山の頂上に祀ったとある。妻は子を宿したが、日が経つにつれ頂上まで参るのが困難になり、女体地蔵のみ下に降ろし「上の頓子・下の頓子」と言われるようになった。これより近郷では子供が授かる、あるいは安産・母乳に霊験があると崇拝されるようになったという。

 


写真1 何かの石積み(川沿い)

写真2 山神

写真3 道と石垣

写真4 廃屋

写真5 石塔群(左から愛宕社・大山祇命・歳徳神)

写真6 石造物群

写真7 石祠(大日如来)

写真8 石段と灯籠

写真9 屋敷跡の一部

写真10 石塔(須佐乃男命・三輪大神社)
 
写真11 稲荷社

写真12 谷の中の石塔群。中央左には「開山教祖」として立花氏の名がある

写真13 写真12そばの線刻。不動明王と僧(弘法大師?)か。「大谷…」の文字も見られる

写真14 鳥居と石塔群(豊川大明神・常富明見大菩薩・八十八大明神など)

写真15 鳥居と石塔群(豊受御大神など)

写真16 石造物群

写真17 石祠

写真18 少名彦大神

写真19 白髭大神・豊玉大明神

写真20 祭祀施設

写真21 子安地蔵

写真22 写真20付近の山神

 

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