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◆杖立(つえたて)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「津西部」(昭和26.11)を使用したものである

所在:津市芸濃町河内(げいのうちょうこうち)字杖立
地形図:平松/津西部
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約160m(水面は約170m)
訪問:2026年8月

 

 大字河内の北東部、安濃(あのう)川沿いにある。現在は安濃ダムの人造湖(錫杖(しゃくじょう)湖)に一部が水没。
 旧版地形図には「町村役場及區役所」と学校の記号があるが、それぞれ河内村役場と河内小学校。いずれも水没は免れており、水没したのは主に住宅が集まっていた左岸側。

 町史によると、河内小学校の主な沿革は以下のとおり。

 明治10.6.30  (宝波学校・落合学校開設)
 明治18.4.1  宝波学校・落合学校を合併し、河内学校開設。杖立の落合氏宅を間借り
 明治20.4.1  河内小学簡易科授業所となる。現在地に新築移転
 明治25.5.17  河内尋常小学校となる
 大正9.4.27  新校舎落成
 大正15.4.1  河内尋常高等小学校となる
 昭和16  河内国民学校となる
 昭和22.4.1  河内小学校となる

 昭和31.6.27

 新校舎落成
 昭和60.3  閉校。27日閉校式挙行

 以下は児童数の推移。

明治20 明治25 明治30 明治35 明治40 大正元 大正5 大正10 昭和元 昭和5 昭和10 昭和15 昭和20 昭和25 昭和30 昭和35 昭和40 昭和45 昭和50 昭和55 昭和59

64

76 67 79 70 91 116 140 113 104 93 89 118 91 73 67 47 50 33 12 7


 また安濃ダムは、昭和56年11月28日本体工事着工。昭和57年10月8日コンクリート打設工事開始。昭和60年5月10日コンクリート打設完了。
 なお水没する杖立の集団移転先は、町内の曽武地区。昭和51年2月中旬より宅地造成工事が行われた。同年に水没地の用地買収補償が妥結し、3月末に補償金の支払いが完了している。
 古くは当地に浄土真宗の光山寺があった。山号は杖立山。記録が少なく創建時期や歴史は不明だが、明治5年の時点では既に無住となっており、成覚寺の住職が兼任。明治6年2月に廃され、成覚寺に合併している。廃止後の境内は明治8年に官有地に編入され荒れ地となっていたが、後に河内小学校敷地の一部となった。
 河内の小字地名図より、右岸・左岸ともに字杖立の領域であることが分かる。
 三重県の郷土史家である大西源一氏が訪問に際し記した「河内谷覚書」が掲載されているが、この時は10戸であったよう(訪問は昭和27年)。


 訪問時は水位がかなり低下しており、遠景から左岸の石垣やいくらかの遺構が確認できた。なお町史には集落跡に建てられたダム建設の宿舎の写真が掲載されており、この建設の際に多くの構造物が撤去されたと思われる。
 水没を免れた右岸では、かつて学校があった場所で宿泊施設兼レストランが営業中。過去の航空写真と現在のものでは建物の配置がよく似ており、一部にかつての校舎が使用されているよう。また町史に掲載されている校舎の写真も、現在の建物とよく似ている。ほか敷地内にはモニュメントや忠魂碑、付近には小学校の創立百周年記念碑と二宮金次郎像が見られる。
 なお集落からやや下流の右岸、県道沿いには磨崖仏(紙屋観音)が見られる。町史によると、もとは現在地直下の旧道沿いの巨石に刻まれたもので、安濃ダムの建設に伴い岩の一部を切り取って現在地に引き上げたとのこと。古くは通行人が仰ぎ見るような格好になっていたが、のち道路の改修で次第に路面が高くなり、その下半身が土砂に埋没するようになったという。所在は字大谷。現地の説明によると、彫られた仏は馬頭観音と弁財天。

 読みは町史のルビに拠った。

 


(写真1 ダム堰堤)

写真2 左岸の宅地群跡を望む

写真3 右岸の県道と施設(役場・学校跡)

写真4 写真3にて。学校時代のモニュメントか

写真5 写真3にて。忠魂碑

写真6 「河内小学校創立百周年記念」の碑(左)・二宮金次郎像(中)・石仏(右)

写真7 紙屋観音

 

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