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◆深尾(ふかお)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「彦根東部」(昭和26.9)を使用したものである

所在:いなべ市藤原町鼎(ふじわらちょうかなえ)
地形図:篠立/彦根東部
形態:川沿いの斜面に家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約200m(水面は約190m)
訪問:2026年8月

 

 大字鼎の西部、砂子谷川(員弁川水系)左岸斜面にある。中里(なかざと)ダムの建設に伴い離村。

 町史によると、離村前28世帯85人。藤田氏・本間氏が多く、ほか加藤・工藤・林の各氏が居住。米作りと炭焼きが主な生業であった。
 中里ダムは、農林省木曽川水系総合開発計画の一環として昭和26年に建設計画が上がった。以来強い反対運動も起こり交渉も難航したが、昭和47年3月工事着手。昭和52年3月竣工。深尾の住民は、大半は町内市場(いちば)へ転出している。
 集落内には薬師如来を本尊とする瑠璃光庵があり、現在は移住先の市場で深尾出身者によって祀られている。この薬師如来は乳が授かる霊験があり女性からの信仰が厚く、遠方からも参拝する人が絶えなかったという。

 当地はダム建設に伴う離村だが、1960年代の航空写真より湖面の下にあたる家屋は数戸程度であることが分かる。訪問時は水位が低く、これらの跡地も確認できた。
 集落の中ほどには離郷の碑があり、その後方は神社跡。
 なお現在の県道から分岐し集落内を通る道路は、水没前から存在するもの。湖面に沈んだ先は、かなえバス停付近で再び県道に合流する。
 以下は離郷の碑の「副碑」の碑文。


 三重用水中里ダムの建設により 我々は今 この故郷の地を去らうとしている 長い歴史と醇美な伝統につちかわれてこの山に生れ ここに育った我々が 遂に離郷の決意をするに至った心情はまことに断腸の一語につきる この美しい大自然の映像と 共に相寄り相助けあった同朋の思い出は 永遠に滅びることなく子々孫々に語り継がれることであらう 我々の犠牲によって満々とこのダムにたたえられた清冽な水が 願わくば世の多くの人たちを潤す恵みの水とならんことを
 さらばふるさと また訪ねくる日まで

 昭和四七年三月
  中里ダム水没地域深尾地区一同


 なお水資源機構三重用水管理所のウェブサイトによると、当地にあった神社は氏神であった砂原神社であるよう。

 「角川」の小字一覧には鼎に「深尾(フカオ)」・「上深尾(カミ―)」があり、見出しの読みはこのルビに拠った。

 


写真1 ダム堰堤

写真2 かつての集落風景(ダム管理所付近の説明板より)

写真3 墓

写真4 屋敷跡

写真5 写真4付近の何かの跡

写真6 屋敷跡

写真7 便所

写真8 屋敷跡

写真9 屋敷跡

写真10 墓跡?

写真11 屋敷跡

写真12 屋敷跡

写真13 屋敷跡

写真14 屋敷跡

写真15 屋敷跡。左は石の境界杭で蓋をされた井戸

写真16 屋敷跡

写真17 屋敷跡

写真18 屋敷跡

写真19 屋敷跡

写真20 屋敷跡

写真21 屋敷跡

写真22 碑。後方に神社の石段が見える

写真23 社殿跡


写真24 何かを祀った跡? 円柱状の構造物の基礎が1対見える


写真25 屋敷跡

写真26 井戸

写真27 屋敷跡

写真28 貯水槽

 

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