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◆川上(かわかみ)



※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「名張」(昭和26.9)を使用したものである

所在:伊賀市川上
地形図:阿保/名張
形態:川沿いに家屋が集まる
標高:川上東・川上西―約230m 川上上―約250m(水面は約260m)
訪問:2026年8月

 

 大字川上の西部、前深瀬川沿いにある。現在は川上ダムの人造湖(あおやま川上湖)に水没。
 2万5,000分の1地形図より
、右岸の川上東、左岸の川上西、上流左岸の川上上の3地区から構成されていたよう。
 訪問時は3地区とも完全に水没しており跡地は確認できなかったが、湖を望む上流県道沿いの小さな園地には、「ふるさと」の碑や「川上区の歩み」および「川上区の家並み」の看板、西之澤橋・宮垣内橋の親柱がある。

 「川上区の歩み」や「川上区の家並み」によると、当地は農業や林業を中心とした生活を営んできたようで、江戸時代末期は60戸。農業のほか、大工や材木関係への従事者が青山地区の中では多かったという。昭和30年頃からは兼業農家が増え、また椎茸栽培を行う家も多かった。
 明治9年から20年まで大円寺に種生(たなお)学校の川上分校が置かれ、廃止後は徒歩で種生まで通った。戦後頃より阿保(あお)小学校・青山中学校へ通学。
 地内には鹿島神社(川上東)、大円寺(川上西)、地蔵堂(川上上)があり、上流右岸の山腹には金刀比羅神社があった。
 ダム関係の流れは、昭和42年4月建設省が予備調査開始。同60年12月ダム実施計画調査に伴う土地の立ち入りに関する協定に調印。平成8年全戸移転を決定。同10年12月より集団移転地へ移住開始、同16年全戸移転完了。

 以下は「ふるさと」の碑文。


 昭和四十三年五月、突然、静かな暮らしの旧青山町川上の前深瀬川にダム建設計画が発表されました。
 それ以降、長い間にわたり住民同士でも意見が対立する苦しい時代が続きましたが、この混乱を次の世代に申し送ることはできないと、明るい将来を願った住民一人ひとりの思いが一つとなり、平成八年、移転という苦渋の決断を下すこととなりました。
 幼い頃、春は新緑の中を、夏は清流の中を、秋は紅葉の山野を駆け巡った思い出が多く残る“ふるさと”。
 ご先祖様が築き守り続けた土地を湖面に沈めることは複雑な心境であり、惜別の思いがつのるばかりですが、かつてこの地に川上区住民の暮らしがあったことを忘れることのないよう、この碑に記します。

 令和三年十一月
 川上区移転者一同


 町史によると、江戸中期57戸276人、明治5年50戸237人、昭和50年34戸144人。
 氏神として鹿島神社が鎮座していたが、明治期の神社合祀政策により41年に阿保村(当時)の大村神社に合祀された。本来ならば村内(種生村)の神社に合祀されるところだが、古来より大村神社の祭礼時には礼服を着用し、供物を奉奠する慣習があり密接な関係が続いていたため、越境の合祀が認められた。
 大円寺は真言宗の寺院で、山号は岩谷山。檀家数31戸。本尊は薬師如来。古くから「中之寺」とも呼ばれる。天暦年間(947-957)に興福寺の真応法印が一寺を建立し「東ノ坊」と称したとされるが、確たる史料はない。のち天正の兵火に遭い焼失したが、僧・永淳が現在地に再建し、大円寺と改称した。
 大円寺には明治9年2月に川上学校が開設された。明治15年、種生学校・老川学校・川上学校が統合し博要学校となり、種生に本校が置かれ、川上学校はこの分校となった。明治20年3月川上学校廃止。
 地図画像上方にある発電所は中部電力阿保発電所。津電灯株式会社が建設したもので、大正10年11月26日竣工。同11年1月26日から本使用認可を得て津方面への送電を開始した。昭和46年12月5日無人化。

 また「角川」によると、大字青山は近世の伊賀郡青山村。明治22年一部が神戸村の大字となり、残部は種生村の大字となる(昭和30年より青山町)。寛政年間57戸276人、昭和38年38世帯197人(うち農家32世帯)、昭和55年34戸138人。
 川沿いの平地から周辺山麓にかけて田畑を開き、米・麦・雑穀を生産していた。

 


(写真1 ダム堰堤)

写真2 川上東・西地区を望む

写真3 川上上地区を望む

写真4 碑など

写真5 「川上区の家並み」

 

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