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◆船頭平(せんどうひら・せんどひら)



※ この地図は、大日本帝国陸地測量部発行の1/50,000地形図「桑名町」(明治33.12)を使用したものである

所在:愛西市立田町(たつだちょう)
地形図:弥富/桑名
形態:平坦地に家屋が集まる
離村の背景:河川の改修
標高:10m弱
訪問:2015年11月・2016年3月

 

 現在の立田町域の南部、木曽(きそ)川の河川内に当たる場所にあった集落。頓教寺(寺院)から500mほど西に位置していた。河川の改修前は木曽川の旧流路の左岸に所在。
 「角川」によると、当地は近世の海西郡船頭平村。明治11年立田村(=後の大字立田。現在の愛西市立田町)の一部となる。明治期の揖斐(いび)・長良(ながら)・木曽三川分流工事(※1)で旧村域は多くが水没した。『寛文村々覚書』では53戸239人、『尾張徇行記』では86戸387人(※2)。神社は八幡社、寺院は浄土真宗頓教寺。
 村史によると、頓教寺は河川改修のため明治25年現在地に移転。付記「立田輪中の村々」の図では、旧村の西半分を超える地域が水没していることが分かる。また当地の名を冠した「船頭平閘門」(写真3)は、明治32年10月起工同35年5月竣工。当時はまだ河川の舟運が重要な交通手段であったため、三川の分断は物や人の流れに大きく影響するおそれがあった。このため木曽川・長良川間の陸地を分断し連絡、両河川の水量を保つために閘門を設けた。
 後年は木曽川の新しい流路に分断されたようで、東側には船頭平河川公園や船頭平閘門、西側には船頭平橋がその名を残している。なお現在の頓教寺がある付近が新しい船頭平地区となっており、住居が建ち並んでいる。
 公園内にはヨハネス・デ・レーケ氏の立像(写真5)が置かれているが、氏は政府に招聘されたオランダ人技師で、木曽三川工事を指揮した人物。当地のみならず、日本各地の土木工事に携わった。

※1 これら木曽三川は下流で複雑に絡み合っていたため、沿岸や中洲の集落は度々水害に悩まされていた。この状況を改善すべく三川の完全な分断を図り、築堤・浚渫・水制・砂防等の大規模な工事が行われた。明治20年起工、同45年竣工(第一期:明治20—28年度、第二期:同29-32年度、第三期:同33-38年度、第四期:同39-44年度)
※2 「寛文覚書」は1670年代の編纂、「徇行記」は1790年代から1820年代にかけて調査されたものであるよう

 


写真1 旧集落方面を望む(2015年撮影)

写真2 船頭平河川公園(以下2016年撮影)

写真3 船頭平閘門

写真4 公園内の石仏

写真5 ヨハネス・デ・レーケ氏の像

 

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