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◆中野(なかの)



※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「白山」(昭和29.12)を使用したものである

所在:高山市荘川町中野(しょうかわちょう―)
地形図:御母衣/白山
形態:川沿いに家屋が集まる
離村の背景:ダム建設
標高:約700m(水面は約750m)
訪問:2009年5月

 

 御母衣(みぼろ)ダムの人造湖(御母衣湖)に沈んだ集落。赤谷海上の間にある。村内で御母衣湖に水没した集落の中では、最も規模が大きい。古い地図では多くの建物のほか郵便局(「郵便電信ヲ兼ル局」)・学校・寺院が見られる。
 右岸で山菜採りをしていた方の話では、家は300軒くらいあったそう。学校は中野小学校・中野中学校、寺院は照蓮(しょうれん)寺と光輪(こうりん)寺。水没後はそれぞれ高山市・関市に移転。両寺院の境内にあった桜の古木は、村内海上の湖畔に移植されている。神社は八幡神社。水没後は村内の新淵(あらぶち)へ移転(合祀?)。方々から人が集まった集落のため、姓はばらばら。水没後の転出先も様々で、岐阜市・高山市・郡上市など県内市町村のほか東京・名古屋などに転出した人もいる。
 
現在は左岸国道沿いにキャンプ場と「水没記念碑」(写真1)・「万象寂静水没之碑」(写真2)がある。以下は「水没記念碑」の全文。


 昭和二十七年十月総理府告示第二三七号を以て御母衣発電所電源開発基本計画が発表せられたのであるがその規模の厖大なること及び我荘川村の受ける影響の余りにも重大なることに村民は非常に驚き水没地域住民はもとより全村擧げて郷土死守の決意を固めダム建設の中止又は支流六厩川、尾上郷川の計画変更を強力に要請し続けたのである
 水没地域は大字牛丸、岩瀬、赤谷、中野、尾上郷、海上の六ケ部落に及びその面積は七百ヘクタール世帯数二五四戸人口一、二〇六人小学校一、中学校一、郵便局一、農協支所一営林署貯木場一、神社五、寺院二、重要文化財二、天然記念物二、魚族養殖場一、等多数の公共的文化的生産的施設と信仰の対象を永久に湖底に没するものでこれは実に本村の生産と経済基盤の約五〇%余に當るものである
 しかも水没地域住民にこの天惠豊かで住みよい郷土を血と汗をもつて築いてくれた父祖幾百年の艱難辛苦を憶へば余にも傷ましく朝な夕な悲涙に〓【さんずいに因】びながら数歳に亘り計画変更の請願を重ねた
 しかるに時代の進運にともなう電源開発の重要性も、もだしがたく又四囲の事情も変化するに及び、「日本民族繁栄の為めなれば」と遂に離合の決意を固めるに至った
 かかる大きな犠牲と協力の上に建設された御母衣ダムより生れる電力が我国生産振興の遠大なる原動力となり貢献することを祈念するとともに悲しくもこの里を去つて行つた荘川村水没地域住民の上に想を馳せその世帯主の名を刻み又その父祖の霊をこの碑に招しそして幾星霜唱ひなれた謡を添へ永く後世に傳えんとするものである

 踊ら■ゐかよ中■の古坊で
  ■■■つつじを中に■て

 昭和三十九年十一月建立
  荘川村村長 下田正男

※ ■は判読できなかったもの


 姓は「水没記念碑」より大沢・若山・加藤・田下・中田・山本・松島・杉山・杉下。
 
なお大字中野は近世の大野郡中野村。明治8年に荘川村の大字となる。

 


写真1 水没記念碑

写真2 万象寂静水没之碑

 

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